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増殖する細部を持った世界観

 二〇〇七年 八月十七日。



 パルマ    イタリア美術、もう一つの都        国立西洋美術館



 今まで現代美術を見る事が多かった私には、数百年前の絵画が鮮やかな色彩を保って今目の前にあるという事に、酷く不可思議な感覚を持った。

 現代の絵画は筆の動きや感触をイメージさせるために筆の跡がはっきり残っていたり、画材の物質感を前面に出すために絵の表面がざらざら、でこぼこしているが、昔の絵画の表面はつるつる、てかてかしている。

 ヨーロッパの人々は、本来聖書にはない物語をどんどん足し加えていく。

 この聖人はこういう人生を生きて、こういう殉教の仕方をしたからこの職業の守護聖人だとか、こういう物を持って、こういう仕草をしていればこの聖人を表しているとか、いろいろな決まり事がある。

 細部にこだわるところが、オタクに似ていると感じた。

 オタクはフィクションはフィクションとして割り切っている冷めたところがある。しかし、彼らは自分たちの頭の中の物語が、自らの現実の人生と将来に決定的な影響を持っていると信じているところがオタクとは決定的に違う。

 四月にルネサンスの絵画を見た時に、その背後に私にとっては未知の思想と原理を感じて不気味に感じたが、それは増殖する細部を持った物語と、それを生じさせた彼らの強迫的な信仰だったのだと、今分かった。






 この企画展を見る前に常設展を見ながら、ヨーロッパのルネサンスから近代に至るこの急激な変化と跳躍は何なのかとずっと考えていた。企画展を見ているうちに、何だか分かってきた。

 彼らは、複雑な細部を持った世界観を持っている。そして、そのような頭の中のイメージと目の前の現実が完全に合致する事はない。そうであれば、自らの世界観を解釈し直すか、或いは、目の前の現実をよく観察して新たな世界観を作り出すかという必要に迫られる。そして、その二つは結局は同じ事だ。この事が近代の思想や科学を生み出したのだろう。

 何故ルネサンスはこの時期起こったのだろう。西ローマ帝国が滅びてから再び文化が成熟するのに千年ほど掛かったり、大航海時代でさまざまな異文化と接触があったり、いろいろな要素が絡み合っているのだろう。

 それより、ギリシア人でもローマ人でもなく、むしろローマ帝国を圧迫して滅ぼしたゲルマン人やケルト人の子孫である彼らが、なぜ今更ギリシア、ローマ文化の復興なのだろう。

 しかし、よく考えてみれば、そんな事は関係ない。そもそもヨーロッパという土地はさまざまな民族が流入と衝突と融合を繰り返す場所であり、その文化は一貫性のある単純な単一の文化ではなく、さまざまな文化の寄せ集めであり、内部に矛盾を孕んだ複雑なものだ。

 だから、その矛盾が精神に緊張を生み、その緊張が彼らをこの世界を解釈しようという執念ともいえる欲求へと駆り立てたのだろう。



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|美術館・博物館 | 21:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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近代建築の典型

 二〇〇七年 六月二十九日。



 ル・コルビュジエ展       森美術館



 建築を「住むための機械」と考えたコルビュジエは、必要最小限の要素で構成された「最小限住宅」を安価に大量に供給しようと考えた。

 それで、ドミノ型、シトロアン型、ルシュール型、モノル型など、さまざまなタイプの規格化されたモジュールを積み上げていく形の建築を考える。

 近代合理主義の権化のようだ。これが今の団地や学校といった公共建築の形の元祖なのだろう。

 規格化された建築というと画一的でつまらなそうに思えたが、模型や映像で見ると、かなり自由に空間が構成されていて、工夫があって面白い。

 柱で建物を支える鉄筋コンクリートは、それ以前の厚い壁で建物を支えていた建築に比べてデザインの自由度が高い。全面ガラス張りのビルといったものも、鉄筋コンクリートの技術があってこそだ。

 しかし、個人的には以前見たガウディやルイス・バラガンの方が個性的で面白かった。



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|美術館・博物館 | 16:55 | comments:3 | trackbacks:1 | TOP↑

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写真と絵画

 二〇〇七年 六月一六日。



 マルレーネ・デュマス ― ブロークン・ホワイト      東京都現代美術館



 最近コンセプチュアルな事ばかり考えて色や形や質感に対する感受性が薄れたのか、そもそもそんなものは初めから持っていなかったのか、それとも、彼女の作品は私が思っているほど単純な絵画作品ではないのか、ほとんどの作品は見ても何をどう感じていいのか分からなかった。或いは、彼女の作品独特の文法みたいなものがあって、私がそれに馴染んでいなかっただけかもしれない。

 かろうじて、荒木経惟の写真作品をもとにした「ブロークン・ホワイト」(2006)だけが印象に残った。

 もとになった荒木経惟の写真と「ブロークン・ホワイト」を何度も見比べた。

 もとになった荒木経惟の写真の女性の表情は明確な性的恍惚を表しているが、デュマスの「ブロークン・ホワイト」の方は深い物思いに沈んでいるようにも、単に眠っているようにも見える。塗り重ねられた筆の跡の油絵具のざらざらした物質感から、作品に投影された作者のさまざまな思いを感じる。

 写真は彫刻や絵画と違って、作者が作品に直接触れていじくる事が出来ない。だから、写真は何をどのような意図を持って写すかかが問題であり、非常にコンセプチュアルな表現であると感じた。

 それに対して、絵画は目の前の作品を直接手でいじくりながら考え、考えながらいじくれる。だから、描きながら、そこにさまざまな思いを塗り込む事が出来る。



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|美術館・博物館 | 15:05 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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リアルなフィクション

 二〇〇七年 五月二十五日。



 靉光展      東京国立近代美術館



 油絵よりも、墨と面相筆で細かく描き込まれた「二重像」(1941)のような作品が印象に残った。私は極度の集中と執念を感じさせる、執拗で稠密な表現が好きなのかもしれない。

 全体としては、若い頃の試行錯誤の後の、戦時中の張り詰めた雰囲気の作品が好かった。






 リアルのためのフィクション      東京国立近代美術館



 ポール・オースターの小説「リヴァイアサン」の中に自分をモデルとした人物を登場させる事を認めるかわりに、自分がその登場人物が小説の中で行った事を実際に行い、それを言葉と写真で記録したソフィ・カルの「B、C、W」(1998)が好かった。

 フィクションの中の人物の行為を現実に行い、それを記録するという非常に意識的な行為と、自らの行為を極度に客観化する事で、自らの存在そのものがフィクションのようになっていく感じに興味を持った。



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|美術館・博物館 | 05:38 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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個別の問題

 二〇〇七年 五月五日。


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 日本美術が笑う        森美術館


 近代以前の日本美術が、どんなものだったのか気になった。特にこの間西洋美術館で見た作品と同時代の日本美術がどうだったのか興味があった。

 明治以後に流派から抜け出して、伝統的な画材を使いつつ、世界に通用する絵画を生み出そうという動きが日本画だ。しかし、今目の前にあるそれ以前の絵画が日本画に比べて劣っているふうには見えなかった。

 ぼさぼさの頭で不気味な笑みを浮かべている寒山拾得図が何点か展示してある。雪村のものが一番気に入った。

 この前西洋美術館で見たヨーロッパの絵画と、同時期の日本の絵画を比べると、随分と雰囲気が違う。

 ヨーロッパは自らの思想を深めるために芸術と向き合う感じがあったが、日本の絵画はあくまでも日々の生活を彩るものであり、酷く日常的な感じがした。






 笑い展          森美術館



 最初のセクションにフルクサスの作品が並べてあった。

 この間国立新美術館でフルクサスの作品を見たときは、まとまりのない雑多な物の集積にしか見えなかった。しかし、それはそれ以前の美術との連続性の中で見ていたからで、今現在の美術から振り返る形で見てみると、特に違和感なく彼らのアイデアは面白いと思えた。



 一群のフルクサスの作品から離れて、先に進む。



 壁にかけられたモニターにスニーカーを履いた足が映っている。靴紐の先に糸が結び付けられ、上に伸びている。その糸が不器用に少しずつ引っ張られる事で、靴紐がほどける。

 その作品には「勃起でくつひもをほどく」(マッズ・リネラップ 2003)という題がついている。

 後ろの二人組みの女性がニヤニヤしながら「頑張れ」などと言っている。

 しかし、多分これは指で引っ張っているだけだ。これは題名のつけ方が肝であり、題名次第でどうとでも見えるという事だろう。

 


 先に進むほど、特定の地域や国の文化的、政治的な個別の状況を扱った作品が増えた。よく知らない国の文化や政治に対する批判やパロディやその状況下での個人的体験を作品として見せられても、なかなかすぐにはピンと来ない。

 これがポストモダンという事なのかと思った。モダニズムは国や民族を越えた合理性を追究したが、最近はとりあえず目の前の個別の問題を追究しているという事だ。

 とにかく作品の量が多過ぎる。おかげで動きのある映像作品やインスタレーションばかりに時間を使ってしまって、動きのない絵画などはつい素通りに近くなってしまう。






 展示室を出て、エレベーターに向かう。

 シティビューの入口の隣のスペースで、よく貸し切りのイベントをやっている。

 その日も何かのイベントをやっていて、天井に青や紫の光が音楽に合わせてちらちら動いている。レストランというかイベントスペースというかの入口には、黒いスーツを着たごつい黒人が立っている。まるでSecond Lifeの中のようだ。

 その日は外国人が多く、エレベーターの中では英語と中国語と何語か分からない言葉が飛び交っている。ますますSecond Lifeのようだ。



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|美術館・博物館 | 03:39 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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