二〇〇五年 三月九日。

恵比寿ガーデンプレイスは、玩具のような建物が立ち並び、街全体がいんちき臭い雰囲気で、どうも好きになれない。

おたく展 東京都写真美術館

地下の展示室に向かって階段を下りていると、後ろからどたばたと足音がしてきた。振り返ると、この展覧会を余程楽しみにしているのか、若い男性が前のめりになって階段を駆け下りてくる。子供じゃないんだから、階段を騒がしく駆け下りるものではない。子供じみた雰囲気を全身から発しながら、その表情からは全く若さを感じられない。眼鏡の奥に細い眼がある。
会場の入り口に美術館で普段見かけるのとは明らかに違うタイプの人間たちが、たむろしている。背が低く、眼鏡を掛けた化粧気のない女性がいる。これが、女性のオタクかと思った。小奇麗にしている女性もいるが、若い女性特有の自意識の高いギラギラした雰囲気がなく、フレンドリーな感じだ。それは男性にもいえる事で、オタクの世界は穏やかで柔らかい感じで、慣れてしまえば酷く居心地が好さそうだ。世界中がこんな雰囲気になれば、戦争なんてなくなるだろう。
「おたく展」の前の期間に開催されていた「GM2005」で展示されていた作品が、会場の入り口で紹介されている。
「Sink Top」という作品に笑った。流し台にモニターとマウスが付いている。蛇口には、取っ手がない。マウス操作で、水を出す。ジュースを作るにも、材料をミキサーにぶち込んだら、マウス操作でミキサーのスイッチを入れる。セキュリティーも配慮されていて、付属のキーボードでユーザー名とパスワードを入力してログインして使う。ログイン方式だから誰がどれだけ水を使ったか、後からすぐ分かる。使いすぎると、ママに怒られたりする。
それと、
「NET ROBOT」の「非同期のセッション」という考え方が面白いと思った。
ネットの本質は実は即時性ではなく、非同時性なのではないかと思った。チャットやネットゲーム以外は掲示板にしろブログにしろネットの中には結局誰もいなくて、他人の残した足跡を眺めているだけなのだ。そして、その足跡を見て自分の足跡を残して去っていく。そして、誰かがその足跡を見て、また、何か足跡を残していくかもしれない。ブログなら、一年前の記事にコメントしても好いわけだし、まさに「非同期のセッション」だ。
科学技術による絶え間ない前進がもたらす、輝ける未来。そのような、戦後の日本国民を高度経済成長へと駆り立てた未来像はしかし、1970年の大阪万博を最後の祭りとして、急速に色褪せてしまった。80年代の中頃には、そのような状況を反映して出現した新しい人格が、「おたく」という呼び名によって見出されるようになった。
彼らは以前ならは、教室で「ハカセ」とあだ名される種類の少年たちだった。目の前の事柄よりも未来に憧れを馳せ、科学者を夢見るタイプである。それゆえ、輝かしい未来像の喪失によって受けた打撃が、ひときわ大きかったのである。
現実の未来が陰り出すと、かつての「ハカセ」たちは、夢を馳せる先を、虚構の世界に見出すようになっていった。彼らの熱中の対象は、科学からSFへ、さらにSFからSFアニメへと移行した。
そのような受容を背景に発展した80年代の日本のアニメを見渡すと、核戦争や天変地異などによって既存の社会が破壊された後、超能力やロボットを操縦する特殊技能などによって、主人公が新たな世界の構築に英雄的な活躍を果たすという筋書きのものが多かった。色褪せた現実からの救済を、ハルマゲドンに求めようとする願望が、そこにはあった。
ところが、そのようなアニメ物語めいたハルマゲドンへの憧れを基盤にしたカルト集団が、毒ガステロによってこれを現実に引き起こそうとする事件が、1995年に起こった。約2ヶ月間にわたって日本の報道番組のヘッドラインを飾り続け、教祖の逮捕によって終幕したこの事件は、架空の未来に対して幻想を抱く事すらも困難にしてしまった。それ以降おたくたちは、学園時代へのノスタルジアを重ねた「美少女」たちとの、架空な日常を描くアニメやゲームへと急速に傾斜していく。
そのような傾斜の過程で、「美少女」を中心とする架空のキャラクターに対するときめきの感情が、「萌え」という呼び名で見出されるようになった。<未来>に対する憧れを、<萌え>が代替したのである。
〜会場の入り口でもらった説明から引用〜
<未来>に対する憧れを、<萌え>が代替したという解釈が、面白いと思った。
会場に入った。
オタク男性が彼女に、この頃は〜が流行っていて、〜だったんだよと展示を見ながら説明している。それは嫌味な知ったかぶりではなく、自分の知識や嗜好を確認するための独り言のようだった。他のオタクたちの会話を聞いても、ひとりで言って、ひとりで納得している感じで対話というより、やはり自己完結した独り言のように思えた。
コミックマーケットを見ると、説明に書いてあるように、普通の見本市会場というのは大企業が大きなブースを作って中央に陣取り、中小企業は隅の小さなスペースに追いやられるが、コミックマーケットでは大きな人気サークルも小さなサークルもスペースの大きさが変わらない。オタクには大が小を呑み込んでいくようなメジャー志向が、希薄なのかもしれない。以前見たコミックマーケットを取材したテレビ映像の中で来場者の一人が、これだけサークルがあれば自分の気に入ったサークルを必ず見つけられると言っていた。要するに、彼らは一人でも、二人でも、同じ嗜好を持った人間を見つけられれば、安心するのだ。彼らは、自分の嗜好を他人に押し付けない。対話を求めて集まるというより、自らの嗜好を互いに確認し合うために、嗜好の合う者同士内輪で盛り上がる。
会場内は床も壁も天井も美少女キャラで埋め尽くされている。美少女キャラに囲まれ、ひとりでニヤニヤしている男性がいる。他人目を気にせず、自分の世界に入っている感じが、いかにもオタクっぽい。
カタログを買おうと思ったが、売り切れていた。そういえば、パンフレットも無くなっていた。入り口で渡されたのは、カタログかパンフレットの一部分をコピーした紙だった。展覧会で、カタログやパンフレットが無くなっているのを見たのは初めてだった。会場内が特別混んでいたわけでもないし、オタクは自意識が高くて、自分たちに対する言及に非常に興味があって、カタログやパンフレットを持ち帰る率が高いのかもしれない。
家に着いて、デジカメで自分の顔を撮った。左右非対称な、歪んだ顔をしている。左眼が死んでいる。口と顎の辺りが左右非対称にむくんでいる。明らかに身体機能が低下しているのだ。
以前の私は、異常に勘の鋭い人間だった。そして、自らの勘を信じきるだけの度胸を持っていた。自らの勘を研ぎ澄ますために、常に自分を鍛える事を考えていた。私の身体にはまだ気づかない、とてつもない可能性がある。この身体は、本来もっと強く美しいはずだ。もっと、自分を鍛えるべきだ。
何をすべきか分かっていながら、それを空想の中に留めるのは罪だとキルケゴールの「死に至る病」に書いてあった。私も、そう思った。ここのところ、一瞬一瞬に全力を尽くすべきなのだ、死に物狂いの覚悟が必要だとずっと考えていた。しかし、頭の中でそう思うばかりで、どうしてもその覚悟を維持できずにいた。私はそのとてつもない可能性を秘めた身体を、神に与えられた。この身体の可能性を、最大限に生かすべきなのだ。そういう倫理観も必要なのかもしれない。
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