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詩的なるもの

 二〇〇五年 三月二十九日。

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 世田谷の住宅街は、路が碁盤の目のように整然と延びていて見晴らしが好く、静かな独特の雰囲気があって好きだ。
 私は花粉症ではないが、今年は前年の何十倍もの杉花粉が飛ぶというので用心のためにマスクをしていたが、春の空気の匂いを嗅ぎたくて、マスクを外した。湿った甘い匂いがした。

 砧公園の中を、世田谷美術館に向かう。

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 瀧口修造展 世田谷美術館

 何か独特の匂いがする。以前来たときも、こんな匂いがしただろうか。いつか、どこかで嗅いだ事のある懐かしい匂いだ。なかなか思い出せなかったが、しばらくしてふと子供の頃通っていた塾の匂いではないかと思った。塾の校舎もこの美術館のように壁や床に大理石が使われていた。或いは、紙とインクの匂いだろうか。

 この展覧会は、瀧口の個人的な収集物や、彼と交流があった美術家たちから送られた作品を集めたものだ。
 この前の痕跡展は私にはよく理解できない理屈を軸に作品が集められていたが、この展覧会は瀧口の詩的感覚によって全ての作品が結びついている。デュシャンの作品が実は非常に詩的であるというのは、驚きだった。横浜美術館で行われていたデュシャン展に行けなかった事を、激しく後悔した。
 私は普段あまり詩は読まないが、詩を読んでみるのも悪くないと思った。

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|美術館・博物館 | 18:04 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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自分はこの世界に遍在しているという自己イメージ

前の記事は思いつきで投稿してしまったので、Google Earthなどの衛星写真を使った地図サービスについて考えた事を書いておく。

以前keyholeを試した事があったが、使われている衛星写真が古い(お台場を見るとフジテレビの前にアクアシティがないし、晴海の見本市会場が解体中だったりする。keyholeのサイトを見ると、確か東京の撮影日時が97年と書いてあった)し、解像度の高い写真が見られるエリアが限られていて、がっかりした。Google Earthになって、衛星写真がなかったエリアにも一応衛星写真が貼り付けられているが、やはり解像度の高いエリアは限られているし、東京の写真は相変わらず97年のままだ(Google Mapの方の写真は新しくなっている)。
記号で出来た地図より、衛星写真の方がリアリティがある。そして、衛星写真が新しく、より正確に実空間を反映していた方がリアリティがある。Google Earthの全体がより高い解像度で覆われれば、我々の地球のイメージはリアリティを増す。
検索技術が向上しネット上の情報が精度を増し、我々がネット上の情報を元に実空間上で行動し、その結果をまた情報としてネットにアップすれば、やがてWeb空間が実空間の反映なのか、実空間がWeb空間の反映なのか分からなくなるだろう。我々の見ている世界が現実なのか、我々の中にあるイメージに過ぎないのか分からないように、やがてWeb空間と実空間の境は意味を無くす。
そうなったとき、我々の自己イメージは変化する。我々は世界の中に存在する点であり、その点の周りに世界が拡がっているように見えている。視覚や聴覚といった感覚器がこの身体に集中しているからだ。だが、衛星写真を使った地図サービスなどによりWeb情報が空間的リアリティを持ち、そこにさまざまなWeb情報がリンクするようになれば、いくつもの視点を同時に持ち、自分が同時にいくつもの場所に存在できるような、自分はこの世界に遍在しているような、或いは、自分をも含めてこの地上を遥か上方から見下ろしているような、いわば神の視点を得る。とはいっても、どんなに情報の量と質が向上しても、世界はそれぞれの個人の理解できる範囲でしか理解できない事に変わりはないが。


ところで、私はOperaを使っているのだが、Operaで見るとトラックバックははてなマップ上に反映されているのに、IEで見ると反映されてないのはなぜだ。

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|コンピュータ・ネット | 18:20 | comments:0 | trackbacks:1 | TOP↑

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はてなマップにトラックバックしてみた

hwtnvさんの記事を読んで、はてなマップを見ると特定の場所にトラックバックできるようなので、面白いと思いこの記事ここにトラックバックしてみた。
しかし、こんな事をしていると美術館や劇場など人が集まるような特定の場所がトラックバックだらけになって、訳が分からなくなりそうだ。

なんか、みんな面白がっているようだ

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|コンピュータ・ネット | 18:49 | comments:0 | trackbacks:2 | TOP↑

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適応力という軸

 二〇〇五年 三月。

 以前、薬をやめようとしたとき、それは禁断症状としての幻覚だったのか、自分の息が火のように熱く、内臓が焼かれるようだった。そのような状態が数日続いた。普段から身体全体に何かがのしかかっているかのように身体が重く、気がつくと床にべたっとうつ伏せになっていたりしたのだが、そのときは普段以上の不快感とこのまま一生起き上がる事が出来ないのではないか、このどうしようもない苦痛から解放される事はもはや二度となく、むしろ死に向かって苦痛は増すばかりなのではないかという恐怖を感じた。その苦痛と恐怖に打ち倒されまいと、自分を奮い立たせるために必死で考えた。
 この程度の事で逃げるのなら、初めからこんなところには来ない。つまり、自分の意思で苦痛の中に踏み込んだのだと明らかに考えていた。
 
 だとしたら、病になり、社会との関係を絶つ事で、一体何を得たというのか。病にならなければ、気の感覚を得る事はなかったろう。それだけの事か。
 そして、思った。
 かつて行動力を増すために病と闘ったが、そこで得たのは行動力ではなく、適応力だったのではないか。そして、適応すべき具体的現実を見失っていたために、それを単なる気分や感覚に過ぎなく感じたのではないか。
 前の記事で、どうあるかという自分の具体的な姿も重要だと書いたが、実際にはそのような自分の「性質」よりも、どのような具体的現実に立ち向かっていくかという意志が重要であって、そのために必要な自分の具体的「性質」は造り上げた適応力の周りに自然に絡みついていくだろう。

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|この身体、この精神 | 19:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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具体性としての自分の姿

 二〇〇五年 三月。

 新日曜美術館で速水御舟という日本画家を取り上げていた。彼は人間が出来ていなければ好い絵は描けないと、禅寺で修行したりしていた。
 最近は自分がどうあるかとか、どうありたいかという事よりも、一瞬一瞬に全力を尽くす意志こそが重要だと考えていた。しかし、御舟の姿を見て、どうあるかという具体性も必要だと思った。具体的な現実の中での格闘によってこそ、意志は獲得できるからだ。具体的な現実の細部に無限に意識を集中し、その結果として具体的現実としての自分の姿がある。
 以前は瞑想しなければ何も出来ないとか、瞑想すれば特別な自分になれるとか、瞑想に対して過剰な期待を抱いていた。それで、それが重荷で仕方なかった。だが、実際には瞑想しなければ何も出来ないわけでもなければ、何か特別な力を得るために瞑想するわけでもない。今なら、もっと自然な形で自分を造り直せるかもしれないし、そうすべきだ。

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|この身体、この精神 | 17:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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意識の統合性

 二〇〇五年 三月。

 ぼんやり飯を食っていると、弟にとあるオンラインゲームに誘われて、自分のパソコンでプレー出来るのか試してみた。よほど退屈していて、新しい行動に飢えているのか、わくわくして、いつもより時間がゆっくり進んでいる気がした。
 ずっと、一瞬一瞬に全力を尽くすべきだと考えていたが、そう考えてもやはり何も彼もが面倒で仕方なく、ただ気持ちが空回りして辛いばかりだった。しかし、新しいゲームを始めてみようと思ったら、わくわくして、目の前の行為にいつもより集中できている感じで、密度の濃い時間がゆっくり進んでいるように感じた。困難な事をやろうやろうと思い詰めているより、何か新しく、楽しい事を始めた方が意欲に繋がるのかもしれないと、オンラインゲームを始めてみた。
 しかし、オンラインゲームとは何が面白いのか。ゲーム空間のプレイヤーたちは互いに無関係に黙々と作業をしているだけだ。普段街を歩いているときと同じだ。社会に知人を全く持たない私にとって、周囲の人間たちは何の接点もない存在であり、移動する骨と肉の塊でしかない。
 子供の頃はどうだったか。その頃は、街を行き交う見ず知らずの人間がどう見えるかなど考えた事もなかった。街を歩くのは、仲間が待つ学校なり、塾なりといった目的地への移動でしかなかった。そして、そこでの手の届く範囲の人間関係が私にとっての世間であり、小学生とか中学生とかいう社会の中の立場を通して社会を眺めていた。
 世間という言葉が具体的人間関係を指すのなら、知人を持たない私には世間という感覚はない。他人に知人と見ず知らずの人間という分け隔てがない私にとって、街という空間も社会という観念も酷く平板で、社会は外から一方的に眺める観察の対象でしかない。
 結局、社会の中での立場や具体的人間関係によって、世界の見え方は変わってくるのだ。という事はゲームの中でも誰か知り合いが出来れば、ゲーム空間の見え方も変わるのか。

 ネットとリアルという分け方があるが、違和感を感じて仕方ない。画面の向こうにいるのはどう考えても「リアル」な人間だ。
 ゲームのバーチャル空間がリアリティを増せば、要するにマトリックスのようにコンピュータと脳を直接繋げて、バーチャル空間の中に完全に入り込んでその中の物に触れられるようになれば、人間はそこにハマり込んで実空間に戻って来なくなるのではないかと誰が言っていた。しかし、例えば会社の建物の中で何らかの体験をして、またその建物から出てくる。バーチャル空間での体験も、自分の部屋なり、ネットカフェなりといった実空間の特定の場所での特定の体験だ。実空間とウェブ空間は地続きであり、それらは対立する概念ではない。
 だから、問題なのは空間ではなく、さっき言ったようにその社会の中での立場や人間関係なのだ。ウェブ空間で個人を特定するのは難しい。だから、失敗したと思えばハンドルネームを変えて、またやり直せば好い。実空間の中とは違う人間を演じる事も出来る。だから、人間にとってはバーチャル空間よりも、バーチャルな自己イメージと人間関係が重要なのだ。

 多重人格というのは、自分では理解できないほどの辛い記憶を抑圧し、やがて意識から切り離されたその記憶が普段とは別の人格を持つようになったものだという。だから、多重人格者は意識上の一貫した記憶から切り離された意識下の抑圧された記憶を意識化し、意識に統合する必要がある。つまり、人格とは自らの雑多な記憶にどのような一貫した理解と解釈を持っているかという事であり、自分にとって世界がどう見えているかという世界観の事だ。
 ウェブ空間と実空間を分けて考える人間は、多分ウェブ空間に実空間とは違う世界を見たがっているのだ。そして、その中で実空間の中でとは違う自分を演じたがっているのだ。そうやって彼らは実空間の中での人格とは別のバーチャルな人格を作り上げる。彼らは多重人格者とは違って意識的に自分好みの別人格を作り、その中にハマり込んでいく。バーチャルな人格は意識的に作られたものだが、彼らはなぜ自分がそんな事をしているのかまでは意識していない。それを意識しているのなら、バーチャルな人格は別人格ではなく、彼の全体的な人格の一部であり、彼の人格の一面でしかなく、それは彼の生きる戦略でしかない。


 日常の瑣末な行為があまりに面倒で、そのせいで行動が滞っている気がして、何か楽しい事をすればそれが意欲に繋がるかと、オンラインゲームを始めてみた。ゲームをすると集中力が高まって体調が好くなるのか、眼がよく見えるようになる。しかし、それも初めだけで、すぐに疲れて嫌になるし、飽きる。いつもの事だ。オンラインRPGはオフラインのシングルプレーのRPGに比べて、ストーリーがはっきりしないし、レベル上げとクエストにやたらと時間と手間が掛かる気がする。一体何が面白いのか。


 多重人格者にとっては、自分の記憶をいかに統合するかが課題だ。要するに、意識の統合性がその人間の現実への対応能力を決める。ネットが社会と人間の意識を変えるという言説の影響を受けて、この頃ネットについて考える事に囚われていた。しかし、ネットでどんなにたくさんの人間と繋がったところで、私にとっては自らの意識の統合性が問題であり、それは自分ひとりで取り組むべき事で、ネットの存在が自分の意識に変化を与えているとはどうしても思えなかった。それに、一瞬一瞬に全力を尽くすために、私には世界そのものと自分ひとりで対峙しているのだという緊張感と覚悟が必要だ。それとも、それはまだネットを十分に使いこなせてないからで、やがて私が自らの思想を実行に移すとき、それは大きな意味を持つのだろうか。

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|この身体、この精神 | 18:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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オタク文化の輝き

 二〇〇五年 三月九日。

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 恵比寿ガーデンプレイスは、玩具のような建物が立ち並び、街全体がいんちき臭い雰囲気で、どうも好きになれない。

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 おたく展 東京都写真美術館

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 地下の展示室に向かって階段を下りていると、後ろからどたばたと足音がしてきた。振り返ると、この展覧会を余程楽しみにしているのか、若い男性が前のめりになって階段を駆け下りてくる。子供じゃないんだから、階段を騒がしく駆け下りるものではない。子供じみた雰囲気を全身から発しながら、その表情からは全く若さを感じられない。眼鏡の奥に細い眼がある。
 会場の入り口に美術館で普段見かけるのとは明らかに違うタイプの人間たちが、たむろしている。背が低く、眼鏡を掛けた化粧気のない女性がいる。これが、女性のオタクかと思った。小奇麗にしている女性もいるが、若い女性特有の自意識の高いギラギラした雰囲気がなく、フレンドリーな感じだ。それは男性にもいえる事で、オタクの世界は穏やかで柔らかい感じで、慣れてしまえば酷く居心地が好さそうだ。世界中がこんな雰囲気になれば、戦争なんてなくなるだろう。
 
 「おたく展」の前の期間に開催されていた「GM2005」で展示されていた作品が、会場の入り口で紹介されている。
 「Sink Top」という作品に笑った。流し台にモニターとマウスが付いている。蛇口には、取っ手がない。マウス操作で、水を出す。ジュースを作るにも、材料をミキサーにぶち込んだら、マウス操作でミキサーのスイッチを入れる。セキュリティーも配慮されていて、付属のキーボードでユーザー名とパスワードを入力してログインして使う。ログイン方式だから誰がどれだけ水を使ったか、後からすぐ分かる。使いすぎると、ママに怒られたりする。
 それと、「NET ROBOT」の「非同期のセッション」という考え方が面白いと思った。
 ネットの本質は実は即時性ではなく、非同時性なのではないかと思った。チャットやネットゲーム以外は掲示板にしろブログにしろネットの中には結局誰もいなくて、他人の残した足跡を眺めているだけなのだ。そして、その足跡を見て自分の足跡を残して去っていく。そして、誰かがその足跡を見て、また、何か足跡を残していくかもしれない。ブログなら、一年前の記事にコメントしても好いわけだし、まさに「非同期のセッション」だ。

 科学技術による絶え間ない前進がもたらす、輝ける未来。そのような、戦後の日本国民を高度経済成長へと駆り立てた未来像はしかし、1970年の大阪万博を最後の祭りとして、急速に色褪せてしまった。80年代の中頃には、そのような状況を反映して出現した新しい人格が、「おたく」という呼び名によって見出されるようになった。
 彼らは以前ならは、教室で「ハカセ」とあだ名される種類の少年たちだった。目の前の事柄よりも未来に憧れを馳せ、科学者を夢見るタイプである。それゆえ、輝かしい未来像の喪失によって受けた打撃が、ひときわ大きかったのである。
 現実の未来が陰り出すと、かつての「ハカセ」たちは、夢を馳せる先を、虚構の世界に見出すようになっていった。彼らの熱中の対象は、科学からSFへ、さらにSFからSFアニメへと移行した。
 そのような受容を背景に発展した80年代の日本のアニメを見渡すと、核戦争や天変地異などによって既存の社会が破壊された後、超能力やロボットを操縦する特殊技能などによって、主人公が新たな世界の構築に英雄的な活躍を果たすという筋書きのものが多かった。色褪せた現実からの救済を、ハルマゲドンに求めようとする願望が、そこにはあった。
 ところが、そのようなアニメ物語めいたハルマゲドンへの憧れを基盤にしたカルト集団が、毒ガステロによってこれを現実に引き起こそうとする事件が、1995年に起こった。約2ヶ月間にわたって日本の報道番組のヘッドラインを飾り続け、教祖の逮捕によって終幕したこの事件は、架空の未来に対して幻想を抱く事すらも困難にしてしまった。それ以降おたくたちは、学園時代へのノスタルジアを重ねた「美少女」たちとの、架空な日常を描くアニメやゲームへと急速に傾斜していく。
 そのような傾斜の過程で、「美少女」を中心とする架空のキャラクターに対するときめきの感情が、「萌え」という呼び名で見出されるようになった。<未来>に対する憧れを、<萌え>が代替したのである。
〜会場の入り口でもらった説明から引用〜


 <未来>に対する憧れを、<萌え>が代替したという解釈が、面白いと思った。

 会場に入った。
 オタク男性が彼女に、この頃は〜が流行っていて、〜だったんだよと展示を見ながら説明している。それは嫌味な知ったかぶりではなく、自分の知識や嗜好を確認するための独り言のようだった。他のオタクたちの会話を聞いても、ひとりで言って、ひとりで納得している感じで対話というより、やはり自己完結した独り言のように思えた。
 
 コミックマーケットを見ると、説明に書いてあるように、普通の見本市会場というのは大企業が大きなブースを作って中央に陣取り、中小企業は隅の小さなスペースに追いやられるが、コミックマーケットでは大きな人気サークルも小さなサークルもスペースの大きさが変わらない。オタクには大が小を呑み込んでいくようなメジャー志向が、希薄なのかもしれない。以前見たコミックマーケットを取材したテレビ映像の中で来場者の一人が、これだけサークルがあれば自分の気に入ったサークルを必ず見つけられると言っていた。要するに、彼らは一人でも、二人でも、同じ嗜好を持った人間を見つけられれば、安心するのだ。彼らは、自分の嗜好を他人に押し付けない。対話を求めて集まるというより、自らの嗜好を互いに確認し合うために、嗜好の合う者同士内輪で盛り上がる。

 会場内は床も壁も天井も美少女キャラで埋め尽くされている。美少女キャラに囲まれ、ひとりでニヤニヤしている男性がいる。他人目を気にせず、自分の世界に入っている感じが、いかにもオタクっぽい。

 カタログを買おうと思ったが、売り切れていた。そういえば、パンフレットも無くなっていた。入り口で渡されたのは、カタログかパンフレットの一部分をコピーした紙だった。展覧会で、カタログやパンフレットが無くなっているのを見たのは初めてだった。会場内が特別混んでいたわけでもないし、オタクは自意識が高くて、自分たちに対する言及に非常に興味があって、カタログやパンフレットを持ち帰る率が高いのかもしれない。

 家に着いて、デジカメで自分の顔を撮った。左右非対称な、歪んだ顔をしている。左眼が死んでいる。口と顎の辺りが左右非対称にむくんでいる。明らかに身体機能が低下しているのだ。
 以前の私は、異常に勘の鋭い人間だった。そして、自らの勘を信じきるだけの度胸を持っていた。自らの勘を研ぎ澄ますために、常に自分を鍛える事を考えていた。私の身体にはまだ気づかない、とてつもない可能性がある。この身体は、本来もっと強く美しいはずだ。もっと、自分を鍛えるべきだ。
 何をすべきか分かっていながら、それを空想の中に留めるのは罪だとキルケゴールの「死に至る病」に書いてあった。私も、そう思った。ここのところ、一瞬一瞬に全力を尽くすべきなのだ、死に物狂いの覚悟が必要だとずっと考えていた。しかし、頭の中でそう思うばかりで、どうしてもその覚悟を維持できずにいた。私はそのとてつもない可能性を秘めた身体を、神に与えられた。この身体の可能性を、最大限に生かすべきなのだ。そういう倫理観も必要なのかもしれない。

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|美術館・博物館 | 18:25 | comments:0 | trackbacks:1 | TOP↑

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複雑に関係し合っている

 二〇〇五年 三月。

 以前は、とにかく身体に手を加えなければと考えていた。そして、それが面倒で仕方なかった。
 二〇〇三年、パソコンを買って、それをいじくってみると何だか夢中になって、時間の密度を濃く感じた。そうするとそれまで、余計な事を気にしていた気がした。身体を造ろうという考えと行為が、意欲と行動の足を引っ張っているのではないかと思った。もっと楽に、楽しく出来る事に集中した方が意欲に繋がるのではないか。
 しかし、人間気を緩めると楽な方へ、楽な方へ流れるもので、実際には楽に楽しめるものなど無くて、今の自分の気力では何一つ為し遂げる事は出来ず、結局全ての行為が単なる退屈しのぎへと堕した。やはり、面倒でも身体を造る事から始めるしかない。
 という事で、以前そうする事で脳が活性化するような気がして、寝る前に足の指を開いたり、閉じたり、グー、チョキ、パーをしたりしていたが、その事から始める事にした。
 以前は、ただやるだけでは駄目だ、その行為に意識を集中し、身体全体、或いは、身体の芯を意識しなければならないと思っていて、その事がその行為を酷く面倒なものにしていた。
 面倒で、面倒で仕方なくて、気がつくと何もしないでぼんやりとしていたりした。そして、その事に気づくと、なぜさっさとやってしまわなかったのかと激しい後悔を感じて、今まで何をしていたのだ、何を感じていたのだ、何を考えていたのだ、そして、どうすれば好いのか、ああでもない、こうでもないと、きりのない強迫的思考で身動きが取れなくなった。
 だから、今度はなくべく意識しないで、ただやればそれで好いのだと考えてする事にした。そうすると以前より、ずっと楽に短時間で出来た気がした。
 だが、何日かするうちにまた段々いろいろ気にするようになり、気がつくと手を伸ばして地図や本を取って眺めていたりする。結局何も彼もが面倒で、そうやってぼんやりしてしまうのだ。

 ここ一年程、左肩の関節が硬くなって、左腕が背中の上の方に回りづらくなっていたが、足の指を動かすようになったら、再び関節が動くようになった。この身体は、さまざまな部分が複雑に関係し合って出来ているのだ。そう考えると、工夫の仕方によってはこの身体には私の知らない可能性がまだまだ眠っているのではないか。

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|この身体、この精神 | 18:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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移転してきました。

 http://kouki.exblog.jp/から、こちらに引っ越してきました。
 初めてご覧になった方も、以前から見て下さってる方も、よろしくお願いします。

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