2005年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2005年10月

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日常感覚と瞑想

 二〇〇五年 八月。

 テレビを眺めながら、ふと考えた。

 以前そうやってテレビを眺めていると、番組の内容よりも、その画面の風景の中に実際に立ったらどんな匂いがするだろう、空気の質感はどんなだろうと気になったりした。だが、今考えるとそんな風に考えたくなる気分が酷く散漫なものに思えた。そんな事より、今は瞑想によってもっと集中した状態を造り出すべきではないのか。

 ここ一ヶ月ちょっと、瞑想や気功をするようになって、ひょろひょろで頼りなかった身体に再び筋肉がつき始めて、自らの身体に対する確信と安心を取り戻した。そして、少し前まで身体感覚に統合を感じられずどうしても、これで好いのか、これで好いのか、という強迫的思考に支配されていたのだが、最近は楽に身体感覚に統合を感じられて、前へ前へと行動を身体感覚に手応えを感じながら進められるようになった。

 しかし、その前へ前へという日常感覚に、この感覚だけに身を委ねていて大丈夫なのかという疑念を感じてもいた。

 だが、数日後瞑想をすると、前へ前へという日常感覚と瞑想中の集中した感覚には特に矛盾はないようだった。

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|この身体、この精神 | 18:48 | comments:10 | trackbacks:0 | TOP↑

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小学生の暴力 (BlogPet)

フェルトは、ここへ弘毅は注意しなかった。


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|ブログペット | 10:47 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑

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小学生の暴力

ついに小学生まで・・・

新聞の記事だけからでは具体的な状況がよく分からない。
私の小学生の頃の記憶から考えると、中高生の暴力と小学生のそれとは性質が全然違うと思う。中高生の暴力は自分の存在を誇示するためとか、いろいろ意味づけが出来るかもしれないが、小学生の場合そういう何かしらの狙いがあって暴れるというより、とにかくパニック状態になっているという感じだった。
私のクラスにも普段はおとなしいのに、ちょっとクラスメートから馬鹿にされると暴れだしてガラスを割ってしまったりする児童や、先生から注意されると泣きながら先生に掴み掛かっていったり、教室からどっかへ出ていってしまう児童がいた。「何馬鹿な事やってんだよ」というより、見ていて痛々しかった。
多分小学生の頃は成長の仕方に個人差があって、対人能力やストレス耐性に差があるのだろう。小学生の暴力事件が増えたとしたら、暴力の低年齢化というよりも、学校の環境がそういう周囲からの刺激に過敏な児童にとって、以前より生き難いものになっているのかもしれない。
子供に対する接し方がどうこうよりも、大人は大人で真剣に自分の人生を魅力的に生きるべきなのではないか。それを見ていれば、子供たちの心も落ち着くもんだろう。

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|未分類 | 19:50 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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記憶の共有

Google Earthと原爆

コメント欄でdotimpactさんが紹介されているデイリーポータルZ「ちょっと見てきて」は面白い。私もmaplog.jpというGoogleMapを使ったサービスを、アクセスログから偶然見つけた。GoogleMapで表示されている範囲に含まれる地名や駅名などを含むブログの記事を検索できる。

情報は他人と共有する事でリアリティを増す。そしてまた我々は空間の中で生き、何か複雑な事を理解したり、説明しようとするときはさまざまな要素の関係を図を使って整理しようとする事から分かるように、空間の中でというか、空間的イメージを使って思考する。
GoogleMapの空間的イメージの中に情報を配置し、皆でそれを共有し関連させ合う事で、我々は新たな世界のリアリティを得るのではないか。

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|コンピュータ・ネット | 18:43 | comments:0 | trackbacks:1 | TOP↑

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イメージの妥当性

 二〇〇五年 八月。

 瞑想をした。その後、瞑想をする前と後で何が変わったか、もっと上手いやり方があったのではないか、ああでもない、こうでもない、と考えてしまう。
 そんな風に瞑想にこだわるのは、それがある時期自分にとって意味を持ったし、今も持っているかもしれないが、その意味がいまだによく分からないからだろう。

 いまだに風呂に入るのが、面倒で仕方ない。そんな事言ってないで、入るならさっさと入ってしまおう。だが、そう思うと次の瞬間には、本当にそれで好いのか、そんな事で本当に上手くいくのか、という疑念と抵抗で動きが止まる。
 かつて、とにかく勉強しようとしていた頃があった。しかし、どんなにそうしようとしても全く上手くいかなかった。頭の中で何かをしようとイメージしても、それだけでは上手く現実を操作する事は出来ないようだった。だから、思考の軸を肉体寄りに移動し、瞑想するようになった。そうする事で、世界と自分自身のリアリティが増した。
 いくら頭の中で何を考えてもそのイメージの妥当性は自分ではなかなか判断できず、そしてそれが低ければ、周囲の現実への影響力が低いためになかなか上手く周囲の現実を操作できずに、苛立ちの中で思考は空回りするだけだ。それで私は思考の軸を自己の内の現実そのものである肉体寄りに移動させ、瞑想するようになったのだろう。
 肉体寄りといっても、瞑想と身体を鍛えようとする体操とは全然違う。体操はイメージの対象としての肉体を、イメージに従って操作しようとする行為だ。瞑想は自己の内の現実の象徴である肉体とそれと繋がる現実そのものをイメージの中に取り込み、自分のイメージそのものを変容させる行為だ。
 瞑想によってイメージの妥当性が増せば、現実を操作しやすくなるはずだ。瞑想によって妥当性の高い自分を造り出し、現実を操作しようとしているのだから、イメージの対象をイメージによって操作しようとする事と、瞑想によって現実をイメージの中に取り込もうとする行為の間に矛盾はないはずだ。頭の中だけで考えて、小手先で何とかしようとする怠惰とは違うはずだ。

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|この身体、この精神 | 18:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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現状への不満 (BlogPet)

きょうは、現実とか特定したかったみたい。
ここへ行動しないです。


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|ブログペット | 11:01 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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現状への不満

 二〇〇五年 八月二日。

 カウンセリングを受ける事にした。
 カウンセラーは大学出たてという感じの若い女性で、話が噛み合うか不安を感じた。以前のカウンセラーとは全く話が噛み合わず、何回か通ううちお互い何を話したら好い分からないという感じになってしまって、通わなくなってしまった。
 彼女は認知療法を用いるという。現実に対して不適応を起こしている認知を意識化して、適応的な認知に変えていくというものだ。面白いと思った。
 強迫的思考が自分の行動の足を引っ張っているのではないかと話した。そうしたら、どういうときに強迫的思考が生じて、そのときどう感じたか考えてくるように言われた。

 家に帰る間考えていた。
 強迫的思考は特定の場面、特定のきっかけで生じるというより、何か行動を起こす毎に生じて常に頭のどこかに引っ掛かり続ける。出掛けていて鞄から何か取り出すと、何か落としやしなかったかと、しつこく足許を眺めたり、振り返ってまた確かめたりする。文章を読めば、どこか読み落としたところはないかと、何度も読み返したくなる。特定の思考が問題というより、強迫的傾向が問題という感じだ。
 おそらく、現状に対する不満や不安が、これで好いのか、これで好いのか、という感覚を生じさせていて、それが強迫的思考に変わるのだろう。証拠に、家族にこれからどうするつもりかというような事を言われて苛立ったり、何も出来ないうちに日が暮れて憂鬱になったりすると、強迫的傾向が強くなる。
 現状に不満があるのならそれを変えるために、不満や不安に精神エネルギーを浪費していないで、具体的な現実の対象にいかに効率的にエネルギーを供給するかが課題だろう。

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|通院 | 23:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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BlogPet (BlogPet)

前はクリックとかを確認すればよかった?
最近は、ネットで硬くクリックをbyしなかったよ
最近はそう硬くたる世界とかを参照しなかったよ
ごちゃごちゃした散漫な雰囲気のブログになるのが嫌で、前から面白そうだと思っていましたが、最近はそう硬く考えずに楽しくやろうと思っていたBlogPetを「フェルト」
と思うようになったので、前から面白そうだと思っていました
好かったら、遊んでやってください
「感覚を参照したる頭かな」「何気なく決意されたる世界かな」
byフェルト


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|ブログペット | 11:01 | comments:9 | trackbacks:0 | TOP↑

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小林古径展

 二〇〇五年 七月十六日。

 小林古径展  東京国立近代美術館 東京都千代田区北の丸公園 3-1

 大正期の作品は、その背後に濃厚な感傷とロマンチシズムを感じて、私にはくどく感じられた。だが、初期の修業時代の作品はとにかく写実的技巧を磨いていますという感じで、素朴、淡白で物足りなく感じた。
 それらに比べて、渡欧以後の作品は単なる感傷や技巧とは違う、素朴でさっぱりしているのだが、充実した独特の雰囲気があって好いと思った。


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|美術館・博物館 | 19:25 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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具体的現実を見る

 二〇〇五年 七月七日。

 頭の中ではいつも偉そうな事ばかり考えているのに、病院で医者の前に出ると、自分の状態をどう話して好いのか戸惑う。
 以前よりは明らかに気分は好い。しかし、実際の生活はあまり変わっていない気がする。一体どういう事なのか。
 強迫的傾向が私を酷くのろまにしている気がする。これまでは瞑想などによって集中力さえ増せば、強迫的思考も、感覚も振り切れると思っていたが、どうやら意識的にその問題と取り組み、努力して無駄な行為を切り捨てていく必要があるようだ。もっと具体的現実を意識し、それに対応する事で抽象的思考を具体化する必要がある。いつまでも抽象に止まっているから、思考が画一化して力むのだ。
 
 十年近くずっと薬を飲んでいたが、副作用は確実に出るのに全然効き目はなくて、ここ何年かは全く飲んでいなかった。新しい薬も出たからと医者に盛んに勧められて、今まで少し頑なに過ぎたかもしれないと思い、多少副作用が出たとしてもそれでこだわりが消えたり、意欲が増すならと、あまり神経質になるのは止めて試しに飲んでみる事にした。
 しかし、飲み始めた次の朝から、何か変だと感じた。そして、二、三日飲んでいるうちに、身体の節々が麻痺したようにだるく、重くなってきた。普段はだるくなってもしばらく休んでいれば多少は楽になったのに、休んでいてもだるくなるばかりだ。頭もぼんやりして、どんどん意欲が萎えていく。これでは身体を起こしているのも辛かった以前の状態に戻ってしまう気がして、飲むのを止めた。

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|この身体、この精神 | 17:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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熱感と硬い手応え

 二〇〇五年 七月。

 ある朝、本当に久し振りに瞑想をした。
 瞑想をする前はこれといった感覚もない状態の中で、手応えを求めて力んでいる感じだったが、瞑想の後は現に次から次へと生じては変化していく感覚をどう扱って好いか分からなくて混乱していた。だが、そういう感覚も夕方には消えて、いつもの状態に戻った。
 それから数日して、これまた久し振りに気功をした。気功をすると身体感覚が明らかに変わった。それまでは眠くて、だるくて仕方なくて、眼を閉じると凄まじい眠気に襲われたのだが、気功をしたら眼を閉じると全身に熱が籠るような、或いは、下腹に力が硬く籠るような、心地好い、手応えのある充実感を感じるようになった。それが、数日続いた。

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|この身体、この精神 | 16:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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BlogPet

ごちゃごちゃした散漫な雰囲気のブログになるのが嫌で、
なるべくシンプルなブログにしようと思っていましたが、
最近はそう硬く考えずに楽しくやろうと思うようになったので、
前から面白そうだと思っていたBlogPetを「フェルト」と名づけ設置しました。

クリックすると川柳を詠む事があります。
私は2回確認しました。
好かったら、遊んでやってください。

「感覚を 参照したる 頭かな」
「何気なく 決意されたる 世界かな」 by フェルト

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|ブログペット | 17:44 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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思い入れを持てなかった

二〇〇五年 七月。



 

 新シルクロード展  江戸東京博物館東京都墨田区横網1−4−1

 天山北路、天山南路、西域南道という地域別に遺物が並べられているのだが、私はその地域の国々の興亡に詳しくないから、それらの遺物をひとつのストーリーとして結びつける事が出来ず、それらは私にとってはただ物珍しいだけのモノで、これといった思い入れを持つ事が出来なかった。まだテレビで「新シルクロード」を見ている方が分かりやすく、登場する遺物に思い入れを持ちやすいと思った。
 ただ、中央アジアの遺物は素朴で、西安の遺物は洗練されているという程度の事は感じた。

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|美術館・博物館 | 18:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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生きる事に意味があるにしろ、ないにしろ、それは気分に過ぎない

 岡野守也さんの「岡野守也の公開授業+α」の「近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 2」を読んで、子供の頃を思い出した。
 小学生の頃、相対性理論に関する本を読んで、物理学に興味を持った。しかし、中学生になると、どんなに科学したって全てを理解し尽くすなんて出来ないし、仮にこの世界の全てを理解したとして、そんな事が何になるのかと思うようになっていた。自らの主体というものに疑念を抱くようになっていた。
 当時は自らの核心は精神だと考えていた。では、精神とはどこにあるのか。精神とは脳の機能だ。だとしたら、私とは脳の事なのか。しかし、意識は脳に偏在しているから、脳の一部はさらに切り捨てる事が出来る。そのようにこの身体を切り刻んでいけば、これが私だといえる何かが取り出せるのだろうか。何だか、違う気がした。
 それ以上に、自らの内面の不可思議さに気づき、混乱していた。自分の心の中で、自分で理解し意識できているのはほんの一部に過ぎなかった。例えば、自分の判断が好き嫌いというものに影響されるとして、その何が好きで何が嫌いかというのは予め自分の意志で決めているわけではない。つまり、我々の意志は自分の意志とは無関係なさまざまのものの影響を受ける。私は自分の意志がどのような根拠を持って、どこから生じてくるのか全く分からなかった。そんなものを自分の意志というだろうか。自分の意志すら持たない、自分とは何だろう。そもそも、自分なんてこの世界に存在するのだろうか。
 自分が何をしようとしてるのか、何をしたら好いのか分からなくなった。奈落の底に落ちていくような恐怖を感じた。しかも、自分の腕は何を支えるためにもがいているのかさえ分からない。
 自分の背後に巨大な無気力を感じた。それはやがてどこまでも拡大し、私を呑み込み、私は行動力を完全に失うだろうと思った。それを恐れた私は、無理やりアクセルを踏み込むようにして、高校受験のための勉強に自分を駆り立て、やがて神経を擦り減らして、うつ病になった。
 その後、うつ病の圧倒的な絶望感の中で、人生がどんなに無意味で苦痛に満ちたものだとしても、最後まで生き抜く決意をした。しかし、人生が無意味だとすると、何をしようとしても結局は退屈しのぎに過ぎなかった。そして、病によって行動力を完全に失っていた私には退屈しのぎすら許されなかった。それまで、邪魔で無意味なものにしか思えなくて、病と正面から向き合えずにいたが、正面から闘うしかなくなった。
 外部への関心を全て切り捨て、全ての関心を自分自身に集中した。そうすると、それまで自分自身だと思っていた、例えば、何が出来るとか出来ないとか、何を持っているとかいないとかいう事が単なる自分の「性質」に過ぎず、「性質」は自分自身ではないという事に気づいた。私はさまざまな要素で出来ているが、私はそのような要素の単なる寄せ集めではなく、そのような要素を統合し、統制しようとする、単なる「構造」とは違う、動的な主体が存在する事に気づいた。
 人間本当に真剣になると神経が研ぎ澄まされ、周囲の変化に敏感になり、周囲の現実が明確な意志を持って動いているように見え始める。そして、その意志と自分の主体が地続きで、互いに密接に干渉し合っている事に気づく。つまり、新たに発見した自らの動的主体は、単独で独立した存在ではなく、この世界そのものとあまりに深く関わっている。
 そんなとき、ふと思った。自分は生きる無意味を受け入れたつもりで、でも本当は、どうしてもそれを受け入れる事が出来ずにいたのではないか。そうでなければ、生きる無意味を受け入れるのにあんなに苦しむ必要はなかったはずだ。生きる事に意味があるにしろ、ないにしろ、それは気分でしかなく、人間が気分だけで出来ているわけではない以上、そんな事に過剰にこだわる理由がない。何だか悪い夢から醒めたようだった。しかし、そうだとすると私の全ての努力はむなしさという単なる気分から抜け出すためのものだったのであり、結局気分をいじくっていただけな気がして失望した。それまで私を駆り立てていた、この世界と自分の存在に意味を見い出せない絶望と、意味を見い出そうとする情熱を失い、その後しばらくそれまでの激しい絶望とは対極にあるような、冷めた失望と無気力に支配され、かつての真剣さを失った。
 そして、今思うのは、ひとりで頭の中だけで愚図愚図考えているだけだから、私の思想はいつまでたっても単なる自己満足的な気分でしかないのだという事だ。積極的な試行錯誤の中で思想は具体的な形を得るだろう。
 とりあえずは勉強でもしてみようと思う。そして、そのうち気力や体力が増してくれば、何か出来るだろうし、何か新しい事も思いつくだろう。

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|この身体、この精神 | 19:11 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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イメージの中の旅

 二〇〇五年 六月。

 地下鉄の中で囲碁の本を読みながら、こんなものぼんやり読んでいると、お前はいつも遊んでばかりだと弟に馬鹿にされそうだとふと思った。何も彼もが、のろまなのだ。だから、全てが単なる遊びになってしまう。要はスピードだ。もっと効率的に情報を処理できるようになれば、体系化された知識や技術を身につける事も出来るかもしれない。

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 「秘すれば花〜東アジアの現代美術〜」展  森美術館

 入り口に黒と灰色が淡く溶け合っているような小林俊哉の写真がある。それは1/2000のシャッタースピードで撮った霧の中のブレーメンの森だ。その静かな森の雰囲気が気に入った。

 雨の日の街の風景を窓から延々と撮影し続けるウ・チチョンのビデオ作品は、見ているうちに実際に雨の日にぼんやりと外を眺めているような気がしてきて、感傷的な気分になった。その中に街の風景を映し込みながら窓ガラスの上を走る雨滴がリアリティを増す。西洋人がこんな風に外の風景を延々と撮り続けるとしたら、その行為にどんな意味があるのか、そのような映像を眺め続ける事に何の意味があるのか考えさせるようなコンセプチュアルな作品になるのではないか。ただ単純に外の風景を撮影し、そのときの気分を再現しようとするところがアジア的なのかなと思った。(だが、実際には後でパンフレットを見ると、この映像は非常に早いシャッタースピードで撮影されていて、映像の中の速度は日常の速度と異なっているという。「見えるものに対する真意の問題を提示している」そうだ。作品を眺めているときは、全然気づかなかった。もし、そんなコンセプチュアルなテーマを予め知っていたら、印象に残らなかったかもしれない)

 会場内に小さな部屋が造られている。リン・シュウミンの作品だ。靴を脱いで中に入ると、床はマットで出来ていて、天井に精巧な白いベットやテーブルや椅子の模型が逆さに取り付けてある。部屋の外に出ると、モニターに部屋の中の様子が映されている。モニターの映像は上下逆になっていて、家具が逆さに取り付けられている天井が下で、床が上に映っている。だから、部屋の中に立っている人間は天井から逆さにぶら下がっているように見える。
 もう一度部屋の中に入って、床に大の字になって寝た。部屋の外のモニターには、私が天井に張り付いているように映っているはずだ。自分が作品の一部になったようで、愉快だ。外の人たちが、面白がってくれたら好いのだが。
 横になって、静かなというか、幻想的というか、奇妙な音楽が流れ、家具が逆さに取り付けられた天井に投影された光や泳ぐ金魚がゆっくりと蠢く部屋を眺めているうちに、重力に逆らって自分が天井に張り付いて部屋を見下ろしているような気がしてきて、眩暈がするような奇妙な気分になった。

 会場に入ったときから、何だか頭がくらくらしている。身体感覚が掴み所がないというか、自分が何を感じているのか、何を感じて好いのか分からないような、今自分はここにいるという確信というか手応えが持ち辛い、周囲の現実が遠く見える不安定な感じ。以前、ダン・グレアム展を見たときも、作品によって思考は揺さぶられているのに、疲労を感じるばかりで上手く想像力を展開できず、もっと自分を鍛えなければと思った。多分、そういう事だ。

 会場内に垂れ下がった漢詩が書かれた布のスクリーンに、山水画らしきものが映し出されている。だが、山に見えるものは魚の頭だったり、全てが食べ物で出来ている。やがて、スクリーンの中に手が伸びてきて、それらの物を食べてしまう。ソン・ドンの作品だ。
 パンフレットには「中国文化を良く知らない人が中国の山水画を鑑賞する際、重要な書の意味を見逃し、その外見的な美にばかり注目しがちだが、この風変わりな山水画は、その美的鑑賞すら許さない」と書いてある。山水画の作者としてみれば、漢詩と画はセットでひとつの表現のつもりなのだろうが、私も漢詩は読めないから漢詩は無視して、画だけで山水画を評価しがちだ。多分、大概の人はそうだろう。作者の意図とは違う現代の文脈からしか、結局我々は過去の異物を見る事は出来ないのかもしれない。

 この展覧会は、東アジアの美術の今を考えようというものなのだが、全体を見ても私にはアジア的という言葉の意味がよく分からなかった。

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 「ストーリーテラーズ〜アートが紡ぐ物語〜」展 (参照 リポート : 八木あすか / 美術・デザインライター)  森美術館

 この展覧会はアートの中の物語性を考えようというものだ。我々は無秩序な、雑多な事物の集積としての現実を認識する事は出来ない。雑多な事物の間に関係性を見い出し、そこに物語を見る事で我々は自分たちの住む現実にリアリティを得る。という事で、人間にとって物語性というのは根源的な問題だ。そもそも無関係に見える事物の間に関係性を見い出し、物語を作るというのは、単純に楽しい。
 グレゴリー・クリュードソンの郊外の街に消防車やパトカーが集っていたり、水浸しの部屋に女性が横たわっていたりする不穏な空気が漂う写真や、パンフレットのよれば「天井裏からのぞいて撮影したような散らかった部屋の俯瞰写真には、陰影や抑揚がなく、全てのものが等価に写しだされている。氾濫した情報の中から明確なストーリーを読み取ることは難しい」というシュテファン・エクスラーの写真は、ここで一体何が起きているのか、この写真の中の人物は何者なのかという想像を掻き立てる。

 壁一面に暗い森の風景が描かれ、そこに巨大な心臓が浮かんでいる。天井には何か透明な素材で作られたたくさんのナイフが、幾筋にも吊られている。木製のボートが吊るされていて、縁から足だけが少女のものである狼の足が垂れている。鴻池朋子(この人についてはART遊覧: 鴻池朋子展ART遊覧: vol.38 鴻池 朋子(Tomoko Konoike)に詳しく書かれてます)の作品だ。部屋の一隅に、藁のような物で縁取られた池のようなものがある。なぜ池だと分かるかといえば、そこに水面の映像が投影されているからだ。その水面を覗き込んでいると、水面の映像は足だけが人間のものである蜂や、狼や、飛び交うナイフや、巨大な少女の顔や、暗い森が登場する謎めいた映像に変わった。さっきまでの疲弊した感覚は奇妙な興奮に変わり、いつの間にか不可思議な世界を自らの足で旅しているようなわくわくした気分になっていた。

 パンフレットによれば「空港の到着ゲートから出てくる乗客の姿をスローモーションで見せ、重厚な聖歌をBGMに用いたビデオ作品。何気ない風景が強制的にドラマ化される様子を通して、物語とは何かを問う」というマーク・ウォリンジャーの作品(参照 fogless: exhibitions: Mark Wallinger [フォグレス:展覧会 ...)。眺めていると、ただ飛行機から降りて来ただけなのだが、彼らが何だか激しい決意を胸に死地に赴く兵士や、未踏の地に挑む冒険家に見えてきて面白くて、ずっと眺めていた。

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 森都市未来研究所
 
 衛星写真を元に土地の起伏を再現し、その上に発泡スチロールか何かで一軒一軒の家から巨大なビルまでを作り、その側面に実写写真を貼り付けた1/1000スケールの東京、ニューヨーク、上海の精巧な模型が展示してある。ニューヨークのマンハッタンの模型と比べると東京がいかに巨大な拡がりを持った都市かがよく分かる。ニューヨークや上海に比べて東京は意外と皇居や上野公園と不忍池や新宿御苑といった大きな緑地が多い。これだけ巨大な都市にたくさんの人間が集まっていれば、ニューヨークや上海なんかよりずっと凄い事が出来そうな気がした。とはいっても、その過剰な人間の集まりが東京の弱点でもある。
 押井守の東京スキャナーが上映されている。全編空撮の映像作品だ。私は最近は主にネットを通して世の中を見ているのだが、東京を俯瞰しながら、これがネットというイメージ空間を作り出しているハードなのだと思った。この中でけして美しいとはいえない骨と肉で出来た人間たちが、希望や不安を抱きながら肩を寄せ合って生きているのだと思うと、江戸の歴史を引き継いだこの東京という街が酷く愛おしく思えてきた。


 次の日、目が覚めると、前の日に森タワーで嗅いだ匂いを思い出した。世田谷美術館でも感じたが、建物にはそのそれぞれに独特の匂いがある。急にさまざまな匂いの記憶が蘇ってきた。子供の頃、親に連れていってもらったデパートの匂い。旅行に行ったときの、特急電車のシートの匂い。何だか、夏休み前の子供のように、意味もなくわくわくしてきた。

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2005年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2005年10月