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ベルリンの

 二〇〇六年 五月。


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 東京−ベルリン/ベルリン−東京展        森美術館


 全体としては二十世紀美術を振り返るというような内容で、見た事のある作品も多く、これといった新しい発見はなかった。私としては、最後の現代のベルリンの美術のコーナーが一番興味深かった。


 
 作者の名前は忘れたが、一日の勤務時間の間にベルリンを観光し尽くせるかという「ベルリン8時間観光ツアー」という映像作品が面白かった。
 ガイドに付いてワンカットで延々とカメラを回し続ける。ガイドが観光スポットの説明をしているところも、次の場所へ向かって黙々と歩くところも。
 ブランデンブルク門の辺りからブンデスターク(連邦議会)に至る十五分程度の部分しか見ていないが、移動の過程も映っているから、点としてではなく線でなぞるようにベルリンを臨場感を持って見る事が出来た。この作品は本当にこの調子で八時間続くのだろうか。

 
 
 ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニの「共和国クラブ」、「共和国宮殿−ホワイト・エリア」。
 一つは木とアクリル板で出来た巨大なブロックか箱のような共和国宮殿の模型。大きなウーファーが取り付けられていて、身体に響く重低音を発している。
 もう一つは向かい合うように壁に投影されている映像のインスタレーション。一つの映像はコンクリートと鉄骨が剥き出しになった共和国宮殿内部の殺風景で巨大な空間を映しながらカメラは横に移動していく。その映像の向かい側の映像ではカメラは建物の外側に向けられていて、一方の映像と同じ速度で横に移動していく。埃で曇った窓から、ベルリンの街が見える。共和国宮殿については何も知らないが、妙に存在感のある場所だ。
 
 後で調べてみた。共和国宮殿というのは、過去の封建時代と帝国主義の象徴だという事でベルリンの王宮を破壊して、その場所に旧東独政権が建てたものだ。
 共和国宮殿というと共産党の幹部だけが出入りできる特別な場所のような気がするが、実際にはボーリング場や劇場やカフェなどがある旧東ベルリン市民の憩いの場だったようだ。旧東ベルリン市民にはいろいろと思い入れのある場所だろう。しかし、東西ベルリン統一後内装にアスベストが使用されているという事で、内装が全て引き剥がされ今の姿になった。背後に政治的な意図も噂されている。そして、既に取り壊しが始まっているようだ。跡地にはかつての王宮が再建される。そんなドイツの近・現代史を象徴するような場所だ。ベルリンという都市の複雑な歴史と事情に、ちょっとせつなくなった。


 
 ボリス・ミハイロフ「路上にて」。
 街を歩く老人たちを撮った何の変哲もない写真に見える。しかし、「いくつもの政権下で平凡な市民として生きてきた彼ら」みたいな説明を読むと急に感傷的に見えてくる。









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|美術館・博物館 | 04:12 | comments:4 | trackbacks:1 | TOP↑

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吾妻橋から見る隅田川

 二〇〇六年 五月。


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 用事があって、いつもは昼過ぎまで寝ているのに午前中に起きて、浅草へ行った。午前中に起きると睡眠時間に関係なく、調子がいい気がする。何だか充実した気分で、目の前の事をこなしていける。

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 吾妻橋から見る隅田川が好きだ。ごちゃごちゃした浅草の街から吾妻橋の上へ出ると、隅田川の上に大きな空間が開ける。海に迫る断崖のように、河岸に雑居ビルが迫る。

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 神谷バー、格好いい。

 地下鉄に揺られる。いつもは突っ張った足の上に体重を乗せている感じだが、この日は上半身は空中に固定されていて、足はただそこから床に垂れている感じだった。僅かに曲げた膝が揺れを吸収している。





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|外出 | 01:52 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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注意を外に向けろ

 二〇〇六年 四月。


 禅の修行では飯を食ったり、掃除をしたりという日常の行為を行うときも、その行為だけに集中して他の事は一切考えないようにすると誰かが言っていた。自分もそうしてみようと思った。

 しかし、いざやってみようとすると、考えなければならない事が山ほどあるのに何も考えないという事が、とても勿体ない事に思えてすごく抵抗を感じた。だが、慣れてくると自然と目の前の事に集中できるようになった気もしてくる。気のせいか、集中力が上がって体調もよくなった。

 だが、そんな状態も二、三日しか続かず、やがて疲れ果てた気分に支配された。気がつくとただぼんやりしている。駄目だこんな事ではと、集中しようとしてもただ力んでしまうだけだ。

 ほかの事は考えずに目の前の事に集中するってどういう事だっけ。こんな感じか。あんな感じか。あれっ。あれっ。

 考えれば考えるほど、ただ神経が擦り減っていく。しかし、考えようとしなければ、ただぼんやりしてしまう。どうしても自然に意識と身体を動かす事が出来ない。








 ある日、気功関係のサイトを見ていると、特定のイメージに向かって自分をコントロールしようとするから力んでしまうのだ、特定のイメージを描くとその先に進めなくなってしまう、それに、大概間違った方向に進んでしまう、と書いてあった。自分はまさしくこれだと思った。自分自身ではなく、外部へ注意を向ける、そして、静かになる、静かにならなければ、周囲からの情報を受け取り難くなる、という事だ。

 という事で、身体から力を抜いた。これでいいのかとか、こうでなければならないのではないかとか、考えるのは止めた。そうすると、苛ついたり、迷いを感じたときに出る力んで喉の奥をカクッと鳴らす癖が数日で消えた。








 病院の帰り、駅に向かって歩いていた。

 いつもは、歩くってこんな感じでいいんだっけ、それともああだっけ、こうだっけ、と強迫的な思考に嵌り込んでしまう。何を問題としてそんな事を考えているのか分からない。だから、当然いくら考えたって答は出ない。考えれば考えるほど、抜けられなくなる。

 しかし、この日はそんな事気にしないで、自然に周囲の空間を感じながら、歩けている気がした。



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|この身体、この精神 | 23:38 | comments:7 | trackbacks:0 | TOP↑

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気のせいならいいのだが・・・・(BlogPet)

きょう、外出された!
弘毅は外出しなかった?


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「フェルト」が書きました。


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|ブログペット | 11:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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世界の見え方

 二〇〇六年 三月。



 転換期の作法」展  東京都現代美術館



 再び現代美術館に来た。


 
 白い壁で仕切られた展示空間に机があり、その周りに椅子が置かれている。机の上には液晶ディスプレイがいくつか置かれていて、アゾロの作品が映しだされている。
 彼らはベルリンを訪れ、町行く人たちにこの町で一番のギャラリーはどこかと尋ねる。そして、アポなしでそのギャラリーに行き、そこで展覧会を行わしてくれと頼む。しかし、どこに行っても丁重に断られてしまう。日本のバラエティ番組のような滑稽なナレーションもテロップもなく淡々と進む三十分以上もあるそんな映像をくつろいでニヤニヤ眺めていた。しかし、ここが美術館という特殊な場所だからそんな風に眺ていられるわけで、もしこの映像のDVDをもらったとして、自分の部屋で三十分以上も黙って見ていられるだろうかとふと思った。



 フィフタ・チエルナの「マロシュと一緒に」という映像作品。近所でよく見かける知的障害を持つ中年男性にカメラを渡し、自由に撮ってもらったものだ。
 彼は自分の家や近所を歩きながら、その場所にまつわる思い出などを拙い言葉だが一生懸命喋っている。思いつきで喋るとまとまりが無いようでいて、しかし、考え抜いて書かれた文章よりも、むしろ、その人の日常における世界の見え方がリアルに表現されるような気がした。
 
 ボイスブログというものがあるが、テキストのブログとどう違うのかとずっと疑問に思っていた。私は文章を書くとき、どうせ文章を書くならよく考えた上で書きたいと思ってしまう。しかし、喋りなら慣れてしまえば、あまり考えずに思いつきでだらだら喋れてしまう気もする。そして、そうする事で自分の世界の見え方が正直にそこに表れてくるのかもしれない。そんな事をマロシュの撮った映像を眺めながら考えていた。



 アルトゥール・ジミェフスキの「歌のレッスン1」。
 耳の不自由な学生たちに歌を教えて、合唱させる様子を撮った映像作品。
 ひとりずつ先生について歌を教えてもらうのだが、そのとき他の学生たちも好き勝手に歌を練習している。異様な光景に見えたが、なるほど彼らは耳が聞こえないから、他人の練習の声が気にならないのだ。だとすると、彼らは視線の向いている方向にしか注意を向けられない事になる。物音で背後の気配を感じ取る事が出来る健常者とは、空間の拡がりに対する感じ方というか質感が随分違うのかもしれない。
 そして、指揮者に合わせて皆で歌うのだが、ただひたすら声を張り上げているだけで、背筋が寒くなるほど音痴だ。始めは苦笑いを浮かべながら歌っていた彼らだが、次第に真剣な表情に変わって、だんだん歌に入り込んでいく。そうするとハーモニーも何もないその合唱に何だかまとまりが生まれ、見ている方も引き込まれていく。そんな不思議な作品だった。




 
 展示室からエントランスホールに出ると、村井啓哲という人がパフォーマンスをしていた。電子的なノイズが轟いている。
 机と椅子があり、村井氏は椅子に座り、何か秤のような物の上でアルミ箔のような物を燃やしている。やがて、それを手に持って前に突き出し、じっとしている。十メートルほど離れたところから見ていたから分からなかったが、初め秤のように見えていた物はモールス信号の電鍵で、それからコードが伸びている。電鍵の振動が電子ノイズに変換されているのだ。
 机の上にはストップウォッチと何か書かれた紙がある。村井氏はそれらを注意深く見ながら、それまでしばらく電鍵を片手で支えていたのだが、その手にもう一方の手を添えた。初めは動作はただ思いつきで行われているのかと思っていたが、どうやら全ての動作は予め紙の上に書かれていて、楽譜上の指示に従って演奏するかのようにその指示通りにパフォーマンスは行われているようだった。この手のパフォーマンスを初めて見た私には、新鮮だった。


 少し離れたところに村井氏の他の作品も展示されていた。その中で「幻象」という作品が気に入った。レオナルド・ダ・ヴィンチの「絵画とは心的な現象である」という言葉から思いついた作品だ。
 深夜の放送終了後のテレビの砂嵐のような画像が、壁に張りつけてある。画像は全くランダムに作成されたものだが、そこに人間の顔を探すといくつも見えてくる。見る者は近くに置いてある白いマーカーで、見つけた顔に印を付ける。「これは心霊現象ではなく心理現象だ」と書いてある。面白い解釈とアイデアだと思った。



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|美術館・博物館 | 02:50 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑

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