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能動的に思考とイメージを構成しろ

 二〇〇七年 二月二十三日。


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 20世紀美術探検―アーティストたちの三つの冒険物語―        国立新美術館


 二十世紀美術を振り返る企画展だ。

 デュシャンの作品は詩的だと改めて思った。

 既製品を意外な形で組み合わせて、そこに言葉である題名を重ねる。そうする事で、独特なイメージと質感を作り出す。

 シュールレアリスムのコーナーで作品を見ながら、自分の詩の見方は結局シュールレアリスムなのだと思った。



 以前は説明パネルを見れば、強迫的になってちゃんと文章が頭に入っているのかと気になって、力んだ。作品を見れば、これでいいのだっけ、以前似たような作品を見たときは何を考え、何を感じたのか、そして今は何を感じているのか、ああでもない、こうでもない、と考えて力んだ。しかし、最近はそうでもない。何となく、自然と見れている。

 そんな事を考えていると、前の日あまり寝ていないせいで、突然強い眠気に襲われた。そして、眠気を感じ始めると、また、ああでもない、こうでもない、という思考が生じて、力む。自然と見れているとはどういう事だ、それは本当か、では以前はどんな感じだったのか、ああでもない、こうでもない。



 二十世紀後半になると、二十世紀前半とはガラッと雰囲気が変わる。並んでいる作品を見ても、単に雑多な物の集積にしか見えない。フルクサスの作家の作品は特にそうだ。

 少し考えた。芸術とは自分が受け取った現実を加工して表現として吐き出す事だとすると、この前見た向後兼一の作品は芸術の本質を突いていたのかもしれない。しかし、今目の前にあるフルクサスの作品からは、何かを加工してひとつの表現にまとめよういう意志を感じる事が出来ない。何とか理解しようとするが、眠くてそれ以上先に思考を進められない。

 ロータ・バウムガルテンの意味深な題名の写真作品が印象に残ったが、具体的な内容は記憶に留める事が出来なかった。



 眠くて仕方ない。最後の現代のセクションのアンドレア・ジッテルの映像作品を見ていても、気がつくとうとうとしている。

 幾つもの平べったい金属の物体が床面から等距離に吊るされ、床面と平行な平面を形成している。コーネリア・パーカーの作品だ。面白い光景だが、そのまま素通りする。

 田中功起の展示空間には、ビデオ映像やオブジェが並べられているが、眠くて頭が全然回転しない。


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 美術館を出て地下鉄のホームまで歩いているうちに、眠気は薄らいだ。そして、地下鉄の中で考えた。

 コンセプチュアルアートは、ミニマルアートから生まれたという。いかなる思想も感情も削ぎ落とし、単純な形態のみにこだわったのがミニマルアートだ。

 しかし、美術作品はいかなる文化的文脈や感情からも切り離してその作品の形態のみで評価するべきだというファーマリズムの極致であるミニマルアートも、結局表現しているのは美術の自律性という概念である事に気づく事で、コンセプチュアルアートが生まれたのだと思う。

 というわけで、最近の美術は目の前の物質としての作品よりも、その背後にあるコンセプトが重要視される。

 二十世紀前半の美術は、全神経を集中して目の前の物質としての作品を構成している。だから、作品は密度の濃い思考と感覚を発していて、それは鑑賞者に何らかのイメージや質感を喚起する装置として機能する。鑑賞者はどちらかというと受身だ。

 しかし、最近の美術では作品の本体は作家の思考や行動や、作家の生きる日常そのものだったりする。目の前の物質としての作品は、その痕跡だ。だから、鑑賞者は自らの思考やイメージを能動的に構成して、その痕跡から作家の意図や行動を想像し、その意味や価値を能動的に評価する必要がある。それで、受身な態度で眺めていても、二十世紀後半の作品は雑多なものの集積にしか見えなかったわけだ。アンドレア・ジッテルの映像作品も彼女のプロジェクトの記録であって、あくまでも作品の本体は彼女の行うプロジェクトそのものだ。

 そんな事を考えつつも、気がつくとうとうとしている。立っていると、がくんと膝が落ちて我に返る。

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|美術館・博物館 | 20:39 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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記憶の中の過去と未来

 二〇〇七年 二月十一日。


 クリスチャン・ボルタンスキー   亡霊のまなざし     東京都現代美術館


 湯沢英彦という研究者が、ボルタンスキーについて語っていた。

 ボルタンスキーは写真や古着を使って、「不在」という事をテーマにした作品を作っている。「不在」とは誰かがかつては存在していたが、もうここにはいないという意味だ。

 彼は小学生時代のクラスメートの集合写真を見て、その子供たちの名前を誰ひとり思い出せなかったという。写真の顔以外は何も分からない。現在の彼らの事は一切知らない。自分の中ではこの子供たちは全て死に絶えてしまったかのようだ。そして、この「死者たち」へのオマージュとして、この集合写真の顔の部分だけを切り抜いたものを使って、作品を作った。

 話を聞きながら、私自身としては「不在」よりも、仮にその元クラスメートを捜して再会したとしたら、その失われた記憶はどうなるのかという事の方が気になった。





 話を聞いた後、常設展示室で「死んだスイス人の資料」(1990)を見た。

 薄暗い展示室の中に数百のビスケット缶が積み上げられ、その一つひとつにスイスの新聞から切り抜いた死亡記事の顔写真が貼り付けられている。それを、積み上げられたビスケット缶の上に置かれた電気スタンドが照らし出している。

 なぜスイス人かというと、かつては自身がユダヤ系という事でユダヤ人の写真を使っていたが、「ユダヤ人」と「死」があまりに上手く結びつき過ぎるという事で、政治的に中立なスイス人の写真を使ったという事だ。

 それぞれがそれぞれの人生を生きたはずなのに、観客には誰が誰だか分からない。個々人の唯一性は消えて、もはや数百枚の写真の集積でしかない。

 言葉にすると重たいが、個人的には越後妻有アートトリエンナーレの廃校を使ったインスタレーションの方が好いと思った。廃校を使ったインスタレーションでは、地元のかつてその学校に通った人たちも訪れる。彼らはそこで過去の記憶と出会う。そして、語り合う。

 単に「不在」を扱うよりも、過去と現在が出会う事でどんな未来が生まれるのかの方に私は興味があるし、その方が表現としての密度が増すと思う。 

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|美術館・博物館 | 17:52 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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コンセプチュアルな実感

 二〇〇七年 二月九日。


 中村宏   図画事件 1953-2007      東京都現代美術館



 中村宏は「見たものを伝える」というところから出発した。実際に起きた事件を取材して、それを描く。彼はごつごつしたマシンが好きなようで、機関車や飛行機がよく出てくる。人物たちも、ごつごつしている。初期の作品は、とにかくごつごつしている。そして、私もごつごつした質感は嫌いではない。


 
 やがて、現場に取材に行く事はなくなり、自分の内面のイメージを描くようになる。そして、画面は一つ目の少女とマシンで埋められるようになる。

 一つ目の少女とマシンを見て、美少女とメカというオタクの世界を思い出した。中村の少女は髪とスカートを振り乱したグロテスクなもので、マシンもごつごつしていて「萌え」とは違うが、結局男は若い女性とメカが好きなのだろう。(後で中村氏の話MOT the Radioで聞いたが、彼の作品に女学生がさかんに出てくるのは、彼の実家が女学校を経営していて、子供の頃セーラー服の女学生に囲まれて育った事と関係があるというような事を言っていた)



 中村は本の装丁や挿絵も手掛けていて、それらの作品が途中に展示してあった。

 絵と活字の組み合わせというのは好いものだ。ネットに溢れる会話調の文章ばかりでなく、たまには凝った文章も読んでみようと思った。



 やがて、どんどん観念的になって「見る事を見る」という事を考えるようになる。少女が望遠鏡をのぞいていて、画面の中央に望遠鏡を通して見た風景が描かれていたりする。



 一九八十年代以降になると、画面は繊細で写実的になっていく。

 画面に動きを与えるためにカンヴァスの枠を列車や飛行機の窓に見立てた作品や、機械における燃料に当たるものが絵画においては観客の視線であり、絵画という構造に視線を注ぐ事で絵画は動くのだという、画面の中を車輪のような機械がしぶきを上げて疾走する「タブロー・マシーン」シリーズがあった。

 あと、ある日ふとアトリエで脈絡なく並べられた自分の作品を見て、そこから思いがけないイメージが生まれた経験から、別々に制作された自分の作品をランダムに繋げた作品や、人間は列車のダイヤの折れ線を見ただけで列車の運行や旅の情景を思い浮かべる事が出来るというダイヤの折れ線を使った作品があった。

 とにかく見る者のイメージを刺激するための工夫がたくさんあって、その真剣な試行錯誤に好感を持った。

 この間、詩的な感覚とコンセプチュアルな想像力の関係について、ふと考えた。

 この展覧会を見て、コンセプチュアルな思考も突き詰めていけば、詩的な感覚と同じような直感的で実感のある感覚に至るのであり、二つの間に矛盾はないのだと思った

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|美術館・博物館 | 16:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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女性への憧れ

 二〇〇七年 一月二十九日。



 病院に出掛ける前、シャワーを浴びていた。

 いつもより楽に動けている気がする。努力の蓄積が一定の量を超えると無理に自分を駆り立てなくてもいろいろな事が自然と出来るようになるのだと勝手に考えて、少し得意気な気分になった。

 バスに遅れそうになって、走った。途中段差がある場所があり、そこに数段の階段がある。走りながら階段を飛び越え、右足で着地し、そのまま地面を蹴って前に進もうとした。

 しかし、気がつくと目の前にアスファルトの地面がある。片足だけで体重を支えられず、ぐしゃっと潰れるように転んだ。とっさに手をついたが、腕でも身体を支えられず、頬を地面につけて這いつくばうという屈辱的な姿勢となった。思ったよりも足腰が弱っている気がして、さっきの得意気な気分は吹き飛んだ。






 地下鉄の中で考えた。

 以前はこうやって出掛けていると、せっかく出掛けているのだから感覚的に何か試さなくてはと、細かい事をいろいろ考えた。しかし、今はそんな事を考えずに、何となくぼんやりとシートに座っている。だからといって、虚ろな気分というわけではない。

 以前は、よほど生きる事に手応えがなかったのだろう。






 帰りに、床屋に寄った。

 若い女性に切ってもらった。

 男性と違って、女性は髪や肌の触り方が柔らかくて、ねちっこい。何だかどきどきして、何度も唾を飲み込んだ。しばらく忘れていた女性への憧れを少し思い出した気がした。






 次の日、目が覚めるといつもより気分が好い。いつもは起きてもぐったり身体が重いのに、この日はそうでもなかった。

 いつもは、収功をやると疲れるのか、しばらくすると頭がくらくらするような、手応えのない頼りない感覚に支配される。しかし、この日はそんな頼りない感覚はなかった。むしろ多少力んでも壊れないような、頑丈な気分だ。意識と身体の核に気感があって、その上に全てが乗っかっている気がする。

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オンラインゲーム

 二〇〇七年 一月。


 弟からいらなくなったビデオカードをもらった。せっかくビデオカードがあるし、前から何か気楽な気晴らしはないかとも考えていたから、あるオンラインゲームを始めてみた。

 二、三時間やってみて、こんな事やっている時間と労力があったら、もっとましな事が出来たのではないかと思った。しかし、それが上手く出来ないから満たされなくて、気晴らしを求めている。

 何日かやっているうちに、そんな事はどうでもよくなっていった。時間感覚が麻痺したように、ゲームをしていると数時間があっという間に過ぎていく。ゲームをやっていないときでも、あそこでこうしたらいいのではないか、などとゲームの事を考えている。時間感覚だけでなく、目の前のリアリティそのものが虚ろだ。

 やがて、ゲームの中の世界の仕組みが分かってくると、ゲームの中の世界が目の前の現実の世界と地続きに接続される感じがして、リアリティが虚ろな感じは消えた。と同時に、ゲームに対する意欲も冷めた。

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|この身体、この精神 | 03:54 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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