2007.04.30 Mon
能動的に思考とイメージを構成しろ
二〇〇七年 二月二十三日。









20世紀美術探検―アーティストたちの三つの冒険物語― 国立新美術館
二十世紀美術を振り返る企画展だ。
デュシャンの作品は詩的だと改めて思った。
既製品を意外な形で組み合わせて、そこに言葉である題名を重ねる。そうする事で、独特なイメージと質感を作り出す。
シュールレアリスムのコーナーで作品を見ながら、自分の詩の見方は結局シュールレアリスムなのだと思った。
以前は説明パネルを見れば、強迫的になってちゃんと文章が頭に入っているのかと気になって、力んだ。作品を見れば、これでいいのだっけ、以前似たような作品を見たときは何を考え、何を感じたのか、そして今は何を感じているのか、ああでもない、こうでもない、と考えて力んだ。しかし、最近はそうでもない。何となく、自然と見れている。
そんな事を考えていると、前の日あまり寝ていないせいで、突然強い眠気に襲われた。そして、眠気を感じ始めると、また、ああでもない、こうでもない、という思考が生じて、力む。自然と見れているとはどういう事だ、それは本当か、では以前はどんな感じだったのか、ああでもない、こうでもない。
二十世紀後半になると、二十世紀前半とはガラッと雰囲気が変わる。並んでいる作品を見ても、単に雑多な物の集積にしか見えない。フルクサスの作家の作品は特にそうだ。
少し考えた。芸術とは自分が受け取った現実を加工して表現として吐き出す事だとすると、この前見た向後兼一の作品は芸術の本質を突いていたのかもしれない。しかし、今目の前にあるフルクサスの作品からは、何かを加工してひとつの表現にまとめよういう意志を感じる事が出来ない。何とか理解しようとするが、眠くてそれ以上先に思考を進められない。
ロータ・バウムガルテンの意味深な題名の写真作品が印象に残ったが、具体的な内容は記憶に留める事が出来なかった。
眠くて仕方ない。最後の現代のセクションのアンドレア・ジッテルの映像作品を見ていても、気がつくとうとうとしている。
幾つもの平べったい金属の物体が床面から等距離に吊るされ、床面と平行な平面を形成している。コーネリア・パーカーの作品だ。面白い光景だが、そのまま素通りする。
田中功起の展示空間には、ビデオ映像やオブジェが並べられているが、眠くて頭が全然回転しない。


美術館を出て地下鉄のホームまで歩いているうちに、眠気は薄らいだ。そして、地下鉄の中で考えた。
コンセプチュアルアートは、ミニマルアートから生まれたという。いかなる思想も感情も削ぎ落とし、単純な形態のみにこだわったのがミニマルアートだ。
しかし、美術作品はいかなる文化的文脈や感情からも切り離してその作品の形態のみで評価するべきだというファーマリズムの極致であるミニマルアートも、結局表現しているのは美術の自律性という概念である事に気づく事で、コンセプチュアルアートが生まれたのだと思う。
というわけで、最近の美術は目の前の物質としての作品よりも、その背後にあるコンセプトが重要視される。
二十世紀前半の美術は、全神経を集中して目の前の物質としての作品を構成している。だから、作品は密度の濃い思考と感覚を発していて、それは鑑賞者に何らかのイメージや質感を喚起する装置として機能する。鑑賞者はどちらかというと受身だ。
しかし、最近の美術では作品の本体は作家の思考や行動や、作家の生きる日常そのものだったりする。目の前の物質としての作品は、その痕跡だ。だから、鑑賞者は自らの思考やイメージを能動的に構成して、その痕跡から作家の意図や行動を想像し、その意味や価値を能動的に評価する必要がある。それで、受身な態度で眺めていても、二十世紀後半の作品は雑多なものの集積にしか見えなかったわけだ。アンドレア・ジッテルの映像作品も彼女のプロジェクトの記録であって、あくまでも作品の本体は彼女の行うプロジェクトそのものだ。
そんな事を考えつつも、気がつくとうとうとしている。立っていると、がくんと膝が落ちて我に返る。
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20世紀美術探検―アーティストたちの三つの冒険物語― 国立新美術館
二十世紀美術を振り返る企画展だ。
デュシャンの作品は詩的だと改めて思った。
既製品を意外な形で組み合わせて、そこに言葉である題名を重ねる。そうする事で、独特なイメージと質感を作り出す。
シュールレアリスムのコーナーで作品を見ながら、自分の詩の見方は結局シュールレアリスムなのだと思った。
以前は説明パネルを見れば、強迫的になってちゃんと文章が頭に入っているのかと気になって、力んだ。作品を見れば、これでいいのだっけ、以前似たような作品を見たときは何を考え、何を感じたのか、そして今は何を感じているのか、ああでもない、こうでもない、と考えて力んだ。しかし、最近はそうでもない。何となく、自然と見れている。
そんな事を考えていると、前の日あまり寝ていないせいで、突然強い眠気に襲われた。そして、眠気を感じ始めると、また、ああでもない、こうでもない、という思考が生じて、力む。自然と見れているとはどういう事だ、それは本当か、では以前はどんな感じだったのか、ああでもない、こうでもない。
二十世紀後半になると、二十世紀前半とはガラッと雰囲気が変わる。並んでいる作品を見ても、単に雑多な物の集積にしか見えない。フルクサスの作家の作品は特にそうだ。
少し考えた。芸術とは自分が受け取った現実を加工して表現として吐き出す事だとすると、この前見た向後兼一の作品は芸術の本質を突いていたのかもしれない。しかし、今目の前にあるフルクサスの作品からは、何かを加工してひとつの表現にまとめよういう意志を感じる事が出来ない。何とか理解しようとするが、眠くてそれ以上先に思考を進められない。
ロータ・バウムガルテンの意味深な題名の写真作品が印象に残ったが、具体的な内容は記憶に留める事が出来なかった。
眠くて仕方ない。最後の現代のセクションのアンドレア・ジッテルの映像作品を見ていても、気がつくとうとうとしている。
幾つもの平べったい金属の物体が床面から等距離に吊るされ、床面と平行な平面を形成している。コーネリア・パーカーの作品だ。面白い光景だが、そのまま素通りする。
田中功起の展示空間には、ビデオ映像やオブジェが並べられているが、眠くて頭が全然回転しない。


美術館を出て地下鉄のホームまで歩いているうちに、眠気は薄らいだ。そして、地下鉄の中で考えた。
コンセプチュアルアートは、ミニマルアートから生まれたという。いかなる思想も感情も削ぎ落とし、単純な形態のみにこだわったのがミニマルアートだ。
しかし、美術作品はいかなる文化的文脈や感情からも切り離してその作品の形態のみで評価するべきだというファーマリズムの極致であるミニマルアートも、結局表現しているのは美術の自律性という概念である事に気づく事で、コンセプチュアルアートが生まれたのだと思う。
というわけで、最近の美術は目の前の物質としての作品よりも、その背後にあるコンセプトが重要視される。
二十世紀前半の美術は、全神経を集中して目の前の物質としての作品を構成している。だから、作品は密度の濃い思考と感覚を発していて、それは鑑賞者に何らかのイメージや質感を喚起する装置として機能する。鑑賞者はどちらかというと受身だ。
しかし、最近の美術では作品の本体は作家の思考や行動や、作家の生きる日常そのものだったりする。目の前の物質としての作品は、その痕跡だ。だから、鑑賞者は自らの思考やイメージを能動的に構成して、その痕跡から作家の意図や行動を想像し、その意味や価値を能動的に評価する必要がある。それで、受身な態度で眺めていても、二十世紀後半の作品は雑多なものの集積にしか見えなかったわけだ。アンドレア・ジッテルの映像作品も彼女のプロジェクトの記録であって、あくまでも作品の本体は彼女の行うプロジェクトそのものだ。
そんな事を考えつつも、気がつくとうとうとしている。立っていると、がくんと膝が落ちて我に返る。
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|美術館・博物館 | 20:39 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑
