2007.11.23 Fri
勉強
二〇〇七年 九月。
去年あたりから、大学に行ってきちんと勉強してみようかと考えている。仕事をしながら行こうと思っているから、まず都合のいい仕事を探さなければならないし、体力的なこともあるし、まだ二、三年はかかりそうだ。
始めは単なる感覚や気分の外に出て、自分を客観化し、よりコントロールしやすくするために勉強しようと思った。だが、最近は勉強することは、この世界と自分自身に対するリアリティに関わるのではないかと思うようになった。そして、この二つは結局は同じ事だろう。
小学生の頃は単に好奇心を満たすため、或いは、周囲の現実に適応するために勉強していた。それ以上、何のために勉強するのかなんて考えなかった。
十代半ばで精神を病むと、勉強して何になるのか、そもそも生きていて何になるのかと感じていたが、知識はないよりはあった方が生きる上で有利だろうと思った。しかし、生きる上で有利といっても、そもそも生きる意欲そのものが、減退しているのだからどうにもならない。
それでも、勉強することしか知らないからなのか、内面の空虚な自分を勿体つけようとしていたのか、執念深く勉強を続けた。
病気で気力や思考力が低下しているからなのか、知識を体系的に組み立てることができず、それは雑学的に平坦に拡がっていくだけで、それが不満で仕方なかった。それで出来もしないことをしようとするのは傲慢だと考えることにして、当時はとても太刀打ちできないほど強大に見えていた病から何とかすることにした。
病との闘いのなかで、自己イメージや身体感覚は変わっていった。それは強烈なリアリティをもった感覚だった。しかし、それは細部のよく見えない巨大な感覚の塊だった。始めは自分に起きた変化に興奮したが、やがてただ気分や感覚をいじくっているだけに思えてきて、一気に気持ちは冷めた。
しかし、病との闘いのなかで経験した変化の記憶があまりに強烈で、そして恐らく同時にそれ以前のいくら勉強しようとしても細かい知識をどうしても体系的に組み立てることが出来なかったという挫折の経験もあって、他にどうしていいのか分からず、とりあえず身体感覚に執着してしまった。
かつて勉強しようとしても思うように出来なかった経験から、もっと自分を鍛えて、自分をもっと上手くコントロールできるようにならなければならないという思いがあり、ただ気分や感覚をいじくっていても仕方がないのではないかという疑念を抱きつつ、しかし、気分や感覚に執着した。
病院の近くの大学の理工学部で学園祭をやっていて、立ち寄ってみた。一昨年のことだ。黙々と何かを生み出そうとする静かな熱気と、空調機器と配管で覆われた巨大な工場のようなごつごつした建物の質感が印象に残った。
やがて、段々と、子供の頃の物理学者になりたかった思いが、蘇ってきた。子供時代への単なるノスタルジーに過ぎないかもしれないが、大学に興味を持った。
始めは、意識を外に向けて自分を客観視するために勉強しようと思った。しかし、最近は勉強することは世界や自分に対するリアリティに関わるのではないかと思うようになった。
病との闘いのなかで得た感覚は、強烈なリアリティをもったものだった。この世界が特定の意志を持って動いているように見え、その意志と自分の内面が密接に干渉し合っているようだった。ひとりでこの世界を包囲しているような緊迫感と、予め全てを知り尽くしているような全能感があった。
しかし、実際には具体的に何が理解できているわけでもなく、それは直感や勘の域を出ず、そこからは何の方向性も見出せなかった。この世界をただ現在という一点でなぞっているだけに思えた。勉強することで、そのリアリティに拡がりを持たせることが出来るのではないか。
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去年あたりから、大学に行ってきちんと勉強してみようかと考えている。仕事をしながら行こうと思っているから、まず都合のいい仕事を探さなければならないし、体力的なこともあるし、まだ二、三年はかかりそうだ。
始めは単なる感覚や気分の外に出て、自分を客観化し、よりコントロールしやすくするために勉強しようと思った。だが、最近は勉強することは、この世界と自分自身に対するリアリティに関わるのではないかと思うようになった。そして、この二つは結局は同じ事だろう。
小学生の頃は単に好奇心を満たすため、或いは、周囲の現実に適応するために勉強していた。それ以上、何のために勉強するのかなんて考えなかった。
十代半ばで精神を病むと、勉強して何になるのか、そもそも生きていて何になるのかと感じていたが、知識はないよりはあった方が生きる上で有利だろうと思った。しかし、生きる上で有利といっても、そもそも生きる意欲そのものが、減退しているのだからどうにもならない。
それでも、勉強することしか知らないからなのか、内面の空虚な自分を勿体つけようとしていたのか、執念深く勉強を続けた。
病気で気力や思考力が低下しているからなのか、知識を体系的に組み立てることができず、それは雑学的に平坦に拡がっていくだけで、それが不満で仕方なかった。それで出来もしないことをしようとするのは傲慢だと考えることにして、当時はとても太刀打ちできないほど強大に見えていた病から何とかすることにした。
病との闘いのなかで、自己イメージや身体感覚は変わっていった。それは強烈なリアリティをもった感覚だった。しかし、それは細部のよく見えない巨大な感覚の塊だった。始めは自分に起きた変化に興奮したが、やがてただ気分や感覚をいじくっているだけに思えてきて、一気に気持ちは冷めた。
しかし、病との闘いのなかで経験した変化の記憶があまりに強烈で、そして恐らく同時にそれ以前のいくら勉強しようとしても細かい知識をどうしても体系的に組み立てることが出来なかったという挫折の経験もあって、他にどうしていいのか分からず、とりあえず身体感覚に執着してしまった。
かつて勉強しようとしても思うように出来なかった経験から、もっと自分を鍛えて、自分をもっと上手くコントロールできるようにならなければならないという思いがあり、ただ気分や感覚をいじくっていても仕方がないのではないかという疑念を抱きつつ、しかし、気分や感覚に執着した。
病院の近くの大学の理工学部で学園祭をやっていて、立ち寄ってみた。一昨年のことだ。黙々と何かを生み出そうとする静かな熱気と、空調機器と配管で覆われた巨大な工場のようなごつごつした建物の質感が印象に残った。
やがて、段々と、子供の頃の物理学者になりたかった思いが、蘇ってきた。子供時代への単なるノスタルジーに過ぎないかもしれないが、大学に興味を持った。
始めは、意識を外に向けて自分を客観視するために勉強しようと思った。しかし、最近は勉強することは世界や自分に対するリアリティに関わるのではないかと思うようになった。
病との闘いのなかで得た感覚は、強烈なリアリティをもったものだった。この世界が特定の意志を持って動いているように見え、その意志と自分の内面が密接に干渉し合っているようだった。ひとりでこの世界を包囲しているような緊迫感と、予め全てを知り尽くしているような全能感があった。
しかし、実際には具体的に何が理解できているわけでもなく、それは直感や勘の域を出ず、そこからは何の方向性も見出せなかった。この世界をただ現在という一点でなぞっているだけに思えた。勉強することで、そのリアリティに拡がりを持たせることが出来るのではないか。
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|この身体、この精神 | 20:45 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑
