人間は全てを予測した上で判断することなんてなくて、よくわからないけど今までの経験からするとこっちの方がよさそうだとか、これはヤバイとか、そういう感覚や気分で判断を下している。そして、人間はこの世界の全てを完全に理解し、予測した上で行動しているわけでない以上、好き嫌いの感情がなければ何の行動も起こせないだろう。
そんなふうに感情や気分が重要だとすると、生きることに意味があろうがなかろうがそんなのは気分に過ぎない、人間の意識が気分だけで出来ているわけではない以上、そんなことに過剰にこだわる理由がないと、以前考えたのは何だったのか。そして、去年プラトンを読んだりしたが、ああいう抽象的な哲学的思考に何の意味があるのだろう。
人間は目の前の現実に対する快・不快だけでなく、むしろ思考によって感情や気分を生み出している。人は自分に自信があるとかないとかいうけれど、それだって自分と周囲の環境との関係をある程度客観的に見るだけの思考力がなければ、そういう感情というか気分は生じない。
恐らく哲学にしたって、思考によって感情が生まれるのなら、考えれば考えるほどそれまでなかった新たな感情や気分が生じるのだろう。そうすることで曖昧な日常的感情や気分から抜けだして、より現実に適応しやすくなるのかもしれない。
以前生きることに意味があるにしろ、ないにしろ、それは気分に過ぎないと考えたとき、悪い夢から覚めたような気がした。それはそれまで感じたことがなかったような非常に冷めた気分だった。それまでの全ての努力が、単に生きる無意味さに対抗するために過ぎなかった気がした。すごく大きな空振りをした気がして、酷く苛立った。
しかし、そんな冷めた苛立ちの中にこの世界や自分自身に対する確信のようなものがやがて生まれ、時間とともにそれは確実に育っていった。それが不思議で仕方なかったが、要するに生きることに意味があるにしろ、ないにしろ、それは気分に過ぎないと考えることで、新たな気分や感情が生じたということなのだろう。
以前は生きる無意味さへの対抗という方向に全ての努力が吸収されていたが、そのようなことから解放されることで、やっと努力を本来的でまともな方向に変えることが出来つつある気がする。
朝起きてテレビをつけると、女子アナがカフェ巡りをしている。
心地好いカフェでのんびり、ぼんやりするのも悪くない。しかし、気に入ったカフェを見つけても、何度か行っているうちにすぐに飽きてしまう気がした。
そこで思い出した。以前の私は出かけて気に入った場所を見つけても、心地好さにぼんやりと身を委ねたりはしなかった。周囲の現実とそれに対する自分の反応を、集中して観察していた。そして、その感覚を注意深く味わっていた。常に変化する感覚と、静かな興奮状態に飽きるも何もなかった。
以前はテレビを見ていても、どこか屋外が映ると、いや屋内でも、そこの空気の質感や匂いはどんなだろう、実際にそこに立ったらどんな感じがするのだろう、そんなことばかり気になって、内容に集中できなかった。だが、最近はぼんやりと単純に内容だけを追っている。
観念的なことばかり考えて、最近は感覚的なことをないがしろにしているのかもしれない。いや、思考が感情や気分を作るのなら、もう考えることすら十分にしていないのかもしれない。
とにかく、焦っている。
感覚や気分はどこか無時間的でそのことだけにこだわれば、きっかけさえあれば細かい手続きなしで、一気に全てを変化させられるという幻想に留まることが出来た。
しかし、観念的に思考を組み立てようとすればさまざまな手続きが必要で、それなりの時間と労力が必要だ。それが、私を焦らせる。
私は精神的にも肉体的にも非常に脆弱な存在だ。それが、私を非常に苛立たせる。しかし、ここは謙虚に自らの弱さを受け入れた上で、どうするか落ち着いて考えるべきだろう。
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