2007.04.11 Wed
記憶の中の過去と未来
二〇〇七年 二月十一日。
クリスチャン・ボルタンスキー 亡霊のまなざし 東京都現代美術館
湯沢英彦という研究者が、ボルタンスキーについて語っていた。
ボルタンスキーは写真や古着を使って、「不在」という事をテーマにした作品を作っている。「不在」とは誰かがかつては存在していたが、もうここにはいないという意味だ。
彼は小学生時代のクラスメートの集合写真を見て、その子供たちの名前を誰ひとり思い出せなかったという。写真の顔以外は何も分からない。現在の彼らの事は一切知らない。自分の中ではこの子供たちは全て死に絶えてしまったかのようだ。そして、この「死者たち」へのオマージュとして、この集合写真の顔の部分だけを切り抜いたものを使って、作品を作った。
話を聞きながら、私自身としては「不在」よりも、仮にその元クラスメートを捜して再会したとしたら、その失われた記憶はどうなるのかという事の方が気になった。
話を聞いた後、常設展示室で「死んだスイス人の資料」(1990)を見た。
薄暗い展示室の中に数百のビスケット缶が積み上げられ、その一つひとつにスイスの新聞から切り抜いた死亡記事の顔写真が貼り付けられている。それを、積み上げられたビスケット缶の上に置かれた電気スタンドが照らし出している。
なぜスイス人かというと、かつては自身がユダヤ系という事でユダヤ人の写真を使っていたが、「ユダヤ人」と「死」があまりに上手く結びつき過ぎるという事で、政治的に中立なスイス人の写真を使ったという事だ。
それぞれがそれぞれの人生を生きたはずなのに、観客には誰が誰だか分からない。個々人の唯一性は消えて、もはや数百枚の写真の集積でしかない。
言葉にすると重たいが、個人的には越後妻有アートトリエンナーレの廃校を使ったインスタレーションの方が好いと思った。廃校を使ったインスタレーションでは、地元のかつてその学校に通った人たちも訪れる。彼らはそこで過去の記憶と出会う。そして、語り合う。
単に「不在」を扱うよりも、過去と現在が出会う事でどんな未来が生まれるのかの方に私は興味があるし、その方が表現としての密度が増すと思う。
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クリスチャン・ボルタンスキー 亡霊のまなざし 東京都現代美術館
湯沢英彦という研究者が、ボルタンスキーについて語っていた。
ボルタンスキーは写真や古着を使って、「不在」という事をテーマにした作品を作っている。「不在」とは誰かがかつては存在していたが、もうここにはいないという意味だ。
彼は小学生時代のクラスメートの集合写真を見て、その子供たちの名前を誰ひとり思い出せなかったという。写真の顔以外は何も分からない。現在の彼らの事は一切知らない。自分の中ではこの子供たちは全て死に絶えてしまったかのようだ。そして、この「死者たち」へのオマージュとして、この集合写真の顔の部分だけを切り抜いたものを使って、作品を作った。
話を聞きながら、私自身としては「不在」よりも、仮にその元クラスメートを捜して再会したとしたら、その失われた記憶はどうなるのかという事の方が気になった。
話を聞いた後、常設展示室で「死んだスイス人の資料」(1990)を見た。
薄暗い展示室の中に数百のビスケット缶が積み上げられ、その一つひとつにスイスの新聞から切り抜いた死亡記事の顔写真が貼り付けられている。それを、積み上げられたビスケット缶の上に置かれた電気スタンドが照らし出している。
なぜスイス人かというと、かつては自身がユダヤ系という事でユダヤ人の写真を使っていたが、「ユダヤ人」と「死」があまりに上手く結びつき過ぎるという事で、政治的に中立なスイス人の写真を使ったという事だ。
それぞれがそれぞれの人生を生きたはずなのに、観客には誰が誰だか分からない。個々人の唯一性は消えて、もはや数百枚の写真の集積でしかない。
言葉にすると重たいが、個人的には越後妻有アートトリエンナーレの廃校を使ったインスタレーションの方が好いと思った。廃校を使ったインスタレーションでは、地元のかつてその学校に通った人たちも訪れる。彼らはそこで過去の記憶と出会う。そして、語り合う。
単に「不在」を扱うよりも、過去と現在が出会う事でどんな未来が生まれるのかの方に私は興味があるし、その方が表現としての密度が増すと思う。
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|美術館・博物館 | 17:52 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

