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世界観と自己イメージ

 二〇〇七年 七月。



 電車の中でプラトンの「国家」を、ちびりちびりと数ヶ月かけて読んだ。





 国政と魂の関係を延々と語った後、最後に魂の不滅が説かれる。

 なぜプラトンは魂と身体を完全に分けて考えたのか気になった。要するに、それはイデアとその仮象としてのこの世界という彼の世界観の反映なのだろう。結局、世界観と自己イメージは表裏一体なのだ。






 小学生の頃、相対性理論に関する本を読んで、その日常の感覚とは違う世界観に驚いた。そして、その本に載っている、いろいろな公式をパソコンに打ち込んで遊んだりした。

 しかし、中学生になると、世界の全てを科学し尽くす事なんて出来ないし、仮に出来たとしてそれが何になるのかと考えるようになった。そもそも科学する事で自分がこの世界をどうしたいのかが分からない。

 関心はどんどん自らの内面と自らの存在の根拠へと、向かっていった。

 私は自らの存在の根拠というか核心は、自らの意識だと思っていた。それがこの身体を支配しているのだと思っていた。

 だが、私には自らの意思決定の過程がまるで見えない。自らの意思で好き嫌いを決めたり、気分を形作っているわけではない。自らの判断が好き嫌いや気分に左右されるとしたら、自らの意思というものが何か得体の知れないものの支配下にあるような気がして不安になった。

 自らの主体であると思っていた自らの意識が、結局は自分にとって巨大なブラックボックスである事に気がついた。

 同時に当時は、どうせ死ぬのなら何をしても意味がないのではないか、そもそも生きていても仕方ないのではないかという考えに取りつかれていた。そして、また、仮に何らかの方法で死を免れたとしても、自らの存在の根拠を見失って基本的に生きる事を無意味だと感じていた私にとって、無意味な生が永遠に続く事によってそこから何らかの価値が生まれるとも思えなかった。

 もはや、どこにも救いはない。自分を含めたあらゆる人間にも、この社会にも何の価値も見出せなかった。奈落の底に落ちていくような気分だった。

 




 今考えれば、自分をこの世界から切り離して、自分の内面だけに意識を向けたのが間違いだった。誰かの心の中を覗く事が出来たとしても、見えるのは相手の心の中に映り込んだこの世界だけだろう。

 自分をこの世界から切り離して、自分の内面だけを見詰めれば、何も見えなくなるのは当然だ。世界観と自己イメージは表裏一体なのだ。真に主体的な意志が生まれるとしたら、世界観と自己イメージの間からしかないだろう。

 子供の頃相対性理論に関する本を読んで関心を持ったのは、単に子供じみた好奇心に過ぎず、だから、その先に進めなかったのだと思っていた。

 しかし、本当はそのとき感じた世界観の揺らぎみたいなものが、自分にとって重要な意味を持つ事を本能的に感じていたのかもしれない。



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|この身体、この精神 | 02:20 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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| | 2007/09/17 17:58 | | ≫ EDIT















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