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イメージの中の旅

 二〇〇五年 六月。

 地下鉄の中で囲碁の本を読みながら、こんなものぼんやり読んでいると、お前はいつも遊んでばかりだと弟に馬鹿にされそうだとふと思った。何も彼もが、のろまなのだ。だから、全てが単なる遊びになってしまう。要はスピードだ。もっと効率的に情報を処理できるようになれば、体系化された知識や技術を身につける事も出来るかもしれない。

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 「秘すれば花〜東アジアの現代美術〜」展  森美術館

 入り口に黒と灰色が淡く溶け合っているような小林俊哉の写真がある。それは1/2000のシャッタースピードで撮った霧の中のブレーメンの森だ。その静かな森の雰囲気が気に入った。

 雨の日の街の風景を窓から延々と撮影し続けるウ・チチョンのビデオ作品は、見ているうちに実際に雨の日にぼんやりと外を眺めているような気がしてきて、感傷的な気分になった。その中に街の風景を映し込みながら窓ガラスの上を走る雨滴がリアリティを増す。西洋人がこんな風に外の風景を延々と撮り続けるとしたら、その行為にどんな意味があるのか、そのような映像を眺め続ける事に何の意味があるのか考えさせるようなコンセプチュアルな作品になるのではないか。ただ単純に外の風景を撮影し、そのときの気分を再現しようとするところがアジア的なのかなと思った。(だが、実際には後でパンフレットを見ると、この映像は非常に早いシャッタースピードで撮影されていて、映像の中の速度は日常の速度と異なっているという。「見えるものに対する真意の問題を提示している」そうだ。作品を眺めているときは、全然気づかなかった。もし、そんなコンセプチュアルなテーマを予め知っていたら、印象に残らなかったかもしれない)

 会場内に小さな部屋が造られている。リン・シュウミンの作品だ。靴を脱いで中に入ると、床はマットで出来ていて、天井に精巧な白いベットやテーブルや椅子の模型が逆さに取り付けてある。部屋の外に出ると、モニターに部屋の中の様子が映されている。モニターの映像は上下逆になっていて、家具が逆さに取り付けられている天井が下で、床が上に映っている。だから、部屋の中に立っている人間は天井から逆さにぶら下がっているように見える。
 もう一度部屋の中に入って、床に大の字になって寝た。部屋の外のモニターには、私が天井に張り付いているように映っているはずだ。自分が作品の一部になったようで、愉快だ。外の人たちが、面白がってくれたら好いのだが。
 横になって、静かなというか、幻想的というか、奇妙な音楽が流れ、家具が逆さに取り付けられた天井に投影された光や泳ぐ金魚がゆっくりと蠢く部屋を眺めているうちに、重力に逆らって自分が天井に張り付いて部屋を見下ろしているような気がしてきて、眩暈がするような奇妙な気分になった。

 会場に入ったときから、何だか頭がくらくらしている。身体感覚が掴み所がないというか、自分が何を感じているのか、何を感じて好いのか分からないような、今自分はここにいるという確信というか手応えが持ち辛い、周囲の現実が遠く見える不安定な感じ。以前、ダン・グレアム展を見たときも、作品によって思考は揺さぶられているのに、疲労を感じるばかりで上手く想像力を展開できず、もっと自分を鍛えなければと思った。多分、そういう事だ。

 会場内に垂れ下がった漢詩が書かれた布のスクリーンに、山水画らしきものが映し出されている。だが、山に見えるものは魚の頭だったり、全てが食べ物で出来ている。やがて、スクリーンの中に手が伸びてきて、それらの物を食べてしまう。ソン・ドンの作品だ。
 パンフレットには「中国文化を良く知らない人が中国の山水画を鑑賞する際、重要な書の意味を見逃し、その外見的な美にばかり注目しがちだが、この風変わりな山水画は、その美的鑑賞すら許さない」と書いてある。山水画の作者としてみれば、漢詩と画はセットでひとつの表現のつもりなのだろうが、私も漢詩は読めないから漢詩は無視して、画だけで山水画を評価しがちだ。多分、大概の人はそうだろう。作者の意図とは違う現代の文脈からしか、結局我々は過去の異物を見る事は出来ないのかもしれない。

 この展覧会は、東アジアの美術の今を考えようというものなのだが、全体を見ても私にはアジア的という言葉の意味がよく分からなかった。

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 「ストーリーテラーズ〜アートが紡ぐ物語〜」展 (参照 リポート : 八木あすか / 美術・デザインライター)  森美術館

 この展覧会はアートの中の物語性を考えようというものだ。我々は無秩序な、雑多な事物の集積としての現実を認識する事は出来ない。雑多な事物の間に関係性を見い出し、そこに物語を見る事で我々は自分たちの住む現実にリアリティを得る。という事で、人間にとって物語性というのは根源的な問題だ。そもそも無関係に見える事物の間に関係性を見い出し、物語を作るというのは、単純に楽しい。
 グレゴリー・クリュードソンの郊外の街に消防車やパトカーが集っていたり、水浸しの部屋に女性が横たわっていたりする不穏な空気が漂う写真や、パンフレットのよれば「天井裏からのぞいて撮影したような散らかった部屋の俯瞰写真には、陰影や抑揚がなく、全てのものが等価に写しだされている。氾濫した情報の中から明確なストーリーを読み取ることは難しい」というシュテファン・エクスラーの写真は、ここで一体何が起きているのか、この写真の中の人物は何者なのかという想像を掻き立てる。

 壁一面に暗い森の風景が描かれ、そこに巨大な心臓が浮かんでいる。天井には何か透明な素材で作られたたくさんのナイフが、幾筋にも吊られている。木製のボートが吊るされていて、縁から足だけが少女のものである狼の足が垂れている。鴻池朋子(この人についてはART遊覧: 鴻池朋子展ART遊覧: vol.38 鴻池 朋子(Tomoko Konoike)に詳しく書かれてます)の作品だ。部屋の一隅に、藁のような物で縁取られた池のようなものがある。なぜ池だと分かるかといえば、そこに水面の映像が投影されているからだ。その水面を覗き込んでいると、水面の映像は足だけが人間のものである蜂や、狼や、飛び交うナイフや、巨大な少女の顔や、暗い森が登場する謎めいた映像に変わった。さっきまでの疲弊した感覚は奇妙な興奮に変わり、いつの間にか不可思議な世界を自らの足で旅しているようなわくわくした気分になっていた。

 パンフレットによれば「空港の到着ゲートから出てくる乗客の姿をスローモーションで見せ、重厚な聖歌をBGMに用いたビデオ作品。何気ない風景が強制的にドラマ化される様子を通して、物語とは何かを問う」というマーク・ウォリンジャーの作品(参照 fogless: exhibitions: Mark Wallinger [フォグレス:展覧会 ...)。眺めていると、ただ飛行機から降りて来ただけなのだが、彼らが何だか激しい決意を胸に死地に赴く兵士や、未踏の地に挑む冒険家に見えてきて面白くて、ずっと眺めていた。

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 森都市未来研究所
 
 衛星写真を元に土地の起伏を再現し、その上に発泡スチロールか何かで一軒一軒の家から巨大なビルまでを作り、その側面に実写写真を貼り付けた1/1000スケールの東京、ニューヨーク、上海の精巧な模型が展示してある。ニューヨークのマンハッタンの模型と比べると東京がいかに巨大な拡がりを持った都市かがよく分かる。ニューヨークや上海に比べて東京は意外と皇居や上野公園と不忍池や新宿御苑といった大きな緑地が多い。これだけ巨大な都市にたくさんの人間が集まっていれば、ニューヨークや上海なんかよりずっと凄い事が出来そうな気がした。とはいっても、その過剰な人間の集まりが東京の弱点でもある。
 押井守の東京スキャナーが上映されている。全編空撮の映像作品だ。私は最近は主にネットを通して世の中を見ているのだが、東京を俯瞰しながら、これがネットというイメージ空間を作り出しているハードなのだと思った。この中でけして美しいとはいえない骨と肉で出来た人間たちが、希望や不安を抱きながら肩を寄せ合って生きているのだと思うと、江戸の歴史を引き継いだこの東京という街が酷く愛おしく思えてきた。


 次の日、目が覚めると、前の日に森タワーで嗅いだ匂いを思い出した。世田谷美術館でも感じたが、建物にはそのそれぞれに独特の匂いがある。急にさまざまな匂いの記憶が蘇ってきた。子供の頃、親に連れていってもらったデパートの匂い。旅行に行ったときの、特急電車のシートの匂い。何だか、夏休み前の子供のように、意味もなくわくわくしてきた。

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