2005.09.05 Mon
生きる事に意味があるにしろ、ないにしろ、それは気分に過ぎない
岡野守也さんの「岡野守也の公開授業+α」の「近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 2」を読んで、子供の頃を思い出した。
小学生の頃、相対性理論に関する本を読んで、物理学に興味を持った。しかし、中学生になると、どんなに科学したって全てを理解し尽くすなんて出来ないし、仮にこの世界の全てを理解したとして、そんな事が何になるのかと思うようになっていた。自らの主体というものに疑念を抱くようになっていた。
当時は自らの核心は精神だと考えていた。では、精神とはどこにあるのか。精神とは脳の機能だ。だとしたら、私とは脳の事なのか。しかし、意識は脳に偏在しているから、脳の一部はさらに切り捨てる事が出来る。そのようにこの身体を切り刻んでいけば、これが私だといえる何かが取り出せるのだろうか。何だか、違う気がした。
それ以上に、自らの内面の不可思議さに気づき、混乱していた。自分の心の中で、自分で理解し意識できているのはほんの一部に過ぎなかった。例えば、自分の判断が好き嫌いというものに影響されるとして、その何が好きで何が嫌いかというのは予め自分の意志で決めているわけではない。つまり、我々の意志は自分の意志とは無関係なさまざまのものの影響を受ける。私は自分の意志がどのような根拠を持って、どこから生じてくるのか全く分からなかった。そんなものを自分の意志というだろうか。自分の意志すら持たない、自分とは何だろう。そもそも、自分なんてこの世界に存在するのだろうか。
自分が何をしようとしてるのか、何をしたら好いのか分からなくなった。奈落の底に落ちていくような恐怖を感じた。しかも、自分の腕は何を支えるためにもがいているのかさえ分からない。
自分の背後に巨大な無気力を感じた。それはやがてどこまでも拡大し、私を呑み込み、私は行動力を完全に失うだろうと思った。それを恐れた私は、無理やりアクセルを踏み込むようにして、高校受験のための勉強に自分を駆り立て、やがて神経を擦り減らして、うつ病になった。
その後、うつ病の圧倒的な絶望感の中で、人生がどんなに無意味で苦痛に満ちたものだとしても、最後まで生き抜く決意をした。しかし、人生が無意味だとすると、何をしようとしても結局は退屈しのぎに過ぎなかった。そして、病によって行動力を完全に失っていた私には退屈しのぎすら許されなかった。それまで、邪魔で無意味なものにしか思えなくて、病と正面から向き合えずにいたが、正面から闘うしかなくなった。
外部への関心を全て切り捨て、全ての関心を自分自身に集中した。そうすると、それまで自分自身だと思っていた、例えば、何が出来るとか出来ないとか、何を持っているとかいないとかいう事が単なる自分の「性質」に過ぎず、「性質」は自分自身ではないという事に気づいた。私はさまざまな要素で出来ているが、私はそのような要素の単なる寄せ集めではなく、そのような要素を統合し、統制しようとする、単なる「構造」とは違う、動的な主体が存在する事に気づいた。
人間本当に真剣になると神経が研ぎ澄まされ、周囲の変化に敏感になり、周囲の現実が明確な意志を持って動いているように見え始める。そして、その意志と自分の主体が地続きで、互いに密接に干渉し合っている事に気づく。つまり、新たに発見した自らの動的主体は、単独で独立した存在ではなく、この世界そのものとあまりに深く関わっている。
そんなとき、ふと思った。自分は生きる無意味を受け入れたつもりで、でも本当は、どうしてもそれを受け入れる事が出来ずにいたのではないか。そうでなければ、生きる無意味を受け入れるのにあんなに苦しむ必要はなかったはずだ。生きる事に意味があるにしろ、ないにしろ、それは気分でしかなく、人間が気分だけで出来ているわけではない以上、そんな事に過剰にこだわる理由がない。何だか悪い夢から醒めたようだった。しかし、そうだとすると私の全ての努力はむなしさという単なる気分から抜け出すためのものだったのであり、結局気分をいじくっていただけな気がして失望した。それまで私を駆り立てていた、この世界と自分の存在に意味を見い出せない絶望と、意味を見い出そうとする情熱を失い、その後しばらくそれまでの激しい絶望とは対極にあるような、冷めた失望と無気力に支配され、かつての真剣さを失った。
そして、今思うのは、ひとりで頭の中だけで愚図愚図考えているだけだから、私の思想はいつまでたっても単なる自己満足的な気分でしかないのだという事だ。積極的な試行錯誤の中で思想は具体的な形を得るだろう。
とりあえずは勉強でもしてみようと思う。そして、そのうち気力や体力が増してくれば、何か出来るだろうし、何か新しい事も思いつくだろう。
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小学生の頃、相対性理論に関する本を読んで、物理学に興味を持った。しかし、中学生になると、どんなに科学したって全てを理解し尽くすなんて出来ないし、仮にこの世界の全てを理解したとして、そんな事が何になるのかと思うようになっていた。自らの主体というものに疑念を抱くようになっていた。
当時は自らの核心は精神だと考えていた。では、精神とはどこにあるのか。精神とは脳の機能だ。だとしたら、私とは脳の事なのか。しかし、意識は脳に偏在しているから、脳の一部はさらに切り捨てる事が出来る。そのようにこの身体を切り刻んでいけば、これが私だといえる何かが取り出せるのだろうか。何だか、違う気がした。
それ以上に、自らの内面の不可思議さに気づき、混乱していた。自分の心の中で、自分で理解し意識できているのはほんの一部に過ぎなかった。例えば、自分の判断が好き嫌いというものに影響されるとして、その何が好きで何が嫌いかというのは予め自分の意志で決めているわけではない。つまり、我々の意志は自分の意志とは無関係なさまざまのものの影響を受ける。私は自分の意志がどのような根拠を持って、どこから生じてくるのか全く分からなかった。そんなものを自分の意志というだろうか。自分の意志すら持たない、自分とは何だろう。そもそも、自分なんてこの世界に存在するのだろうか。
自分が何をしようとしてるのか、何をしたら好いのか分からなくなった。奈落の底に落ちていくような恐怖を感じた。しかも、自分の腕は何を支えるためにもがいているのかさえ分からない。
自分の背後に巨大な無気力を感じた。それはやがてどこまでも拡大し、私を呑み込み、私は行動力を完全に失うだろうと思った。それを恐れた私は、無理やりアクセルを踏み込むようにして、高校受験のための勉強に自分を駆り立て、やがて神経を擦り減らして、うつ病になった。
その後、うつ病の圧倒的な絶望感の中で、人生がどんなに無意味で苦痛に満ちたものだとしても、最後まで生き抜く決意をした。しかし、人生が無意味だとすると、何をしようとしても結局は退屈しのぎに過ぎなかった。そして、病によって行動力を完全に失っていた私には退屈しのぎすら許されなかった。それまで、邪魔で無意味なものにしか思えなくて、病と正面から向き合えずにいたが、正面から闘うしかなくなった。
外部への関心を全て切り捨て、全ての関心を自分自身に集中した。そうすると、それまで自分自身だと思っていた、例えば、何が出来るとか出来ないとか、何を持っているとかいないとかいう事が単なる自分の「性質」に過ぎず、「性質」は自分自身ではないという事に気づいた。私はさまざまな要素で出来ているが、私はそのような要素の単なる寄せ集めではなく、そのような要素を統合し、統制しようとする、単なる「構造」とは違う、動的な主体が存在する事に気づいた。
人間本当に真剣になると神経が研ぎ澄まされ、周囲の変化に敏感になり、周囲の現実が明確な意志を持って動いているように見え始める。そして、その意志と自分の主体が地続きで、互いに密接に干渉し合っている事に気づく。つまり、新たに発見した自らの動的主体は、単独で独立した存在ではなく、この世界そのものとあまりに深く関わっている。
そんなとき、ふと思った。自分は生きる無意味を受け入れたつもりで、でも本当は、どうしてもそれを受け入れる事が出来ずにいたのではないか。そうでなければ、生きる無意味を受け入れるのにあんなに苦しむ必要はなかったはずだ。生きる事に意味があるにしろ、ないにしろ、それは気分でしかなく、人間が気分だけで出来ているわけではない以上、そんな事に過剰にこだわる理由がない。何だか悪い夢から醒めたようだった。しかし、そうだとすると私の全ての努力はむなしさという単なる気分から抜け出すためのものだったのであり、結局気分をいじくっていただけな気がして失望した。それまで私を駆り立てていた、この世界と自分の存在に意味を見い出せない絶望と、意味を見い出そうとする情熱を失い、その後しばらくそれまでの激しい絶望とは対極にあるような、冷めた失望と無気力に支配され、かつての真剣さを失った。
そして、今思うのは、ひとりで頭の中だけで愚図愚図考えているだけだから、私の思想はいつまでたっても単なる自己満足的な気分でしかないのだという事だ。積極的な試行錯誤の中で思想は具体的な形を得るだろう。
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|この身体、この精神 | 19:11 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

