2005.09.22 Thu
イメージの妥当性
二〇〇五年 八月。
瞑想をした。その後、瞑想をする前と後で何が変わったか、もっと上手いやり方があったのではないか、ああでもない、こうでもない、と考えてしまう。
そんな風に瞑想にこだわるのは、それがある時期自分にとって意味を持ったし、今も持っているかもしれないが、その意味がいまだによく分からないからだろう。
いまだに風呂に入るのが、面倒で仕方ない。そんな事言ってないで、入るならさっさと入ってしまおう。だが、そう思うと次の瞬間には、本当にそれで好いのか、そんな事で本当に上手くいくのか、という疑念と抵抗で動きが止まる。
かつて、とにかく勉強しようとしていた頃があった。しかし、どんなにそうしようとしても全く上手くいかなかった。頭の中で何かをしようとイメージしても、それだけでは上手く現実を操作する事は出来ないようだった。だから、思考の軸を肉体寄りに移動し、瞑想するようになった。そうする事で、世界と自分自身のリアリティが増した。
いくら頭の中で何を考えてもそのイメージの妥当性は自分ではなかなか判断できず、そしてそれが低ければ、周囲の現実への影響力が低いためになかなか上手く周囲の現実を操作できずに、苛立ちの中で思考は空回りするだけだ。それで私は思考の軸を自己の内の現実そのものである肉体寄りに移動させ、瞑想するようになったのだろう。
肉体寄りといっても、瞑想と身体を鍛えようとする体操とは全然違う。体操はイメージの対象としての肉体を、イメージに従って操作しようとする行為だ。瞑想は自己の内の現実の象徴である肉体とそれと繋がる現実そのものをイメージの中に取り込み、自分のイメージそのものを変容させる行為だ。
瞑想によってイメージの妥当性が増せば、現実を操作しやすくなるはずだ。瞑想によって妥当性の高い自分を造り出し、現実を操作しようとしているのだから、イメージの対象をイメージによって操作しようとする事と、瞑想によって現実をイメージの中に取り込もうとする行為の間に矛盾はないはずだ。頭の中だけで考えて、小手先で何とかしようとする怠惰とは違うはずだ。
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瞑想をした。その後、瞑想をする前と後で何が変わったか、もっと上手いやり方があったのではないか、ああでもない、こうでもない、と考えてしまう。
そんな風に瞑想にこだわるのは、それがある時期自分にとって意味を持ったし、今も持っているかもしれないが、その意味がいまだによく分からないからだろう。
いまだに風呂に入るのが、面倒で仕方ない。そんな事言ってないで、入るならさっさと入ってしまおう。だが、そう思うと次の瞬間には、本当にそれで好いのか、そんな事で本当に上手くいくのか、という疑念と抵抗で動きが止まる。
かつて、とにかく勉強しようとしていた頃があった。しかし、どんなにそうしようとしても全く上手くいかなかった。頭の中で何かをしようとイメージしても、それだけでは上手く現実を操作する事は出来ないようだった。だから、思考の軸を肉体寄りに移動し、瞑想するようになった。そうする事で、世界と自分自身のリアリティが増した。
いくら頭の中で何を考えてもそのイメージの妥当性は自分ではなかなか判断できず、そしてそれが低ければ、周囲の現実への影響力が低いためになかなか上手く周囲の現実を操作できずに、苛立ちの中で思考は空回りするだけだ。それで私は思考の軸を自己の内の現実そのものである肉体寄りに移動させ、瞑想するようになったのだろう。
肉体寄りといっても、瞑想と身体を鍛えようとする体操とは全然違う。体操はイメージの対象としての肉体を、イメージに従って操作しようとする行為だ。瞑想は自己の内の現実の象徴である肉体とそれと繋がる現実そのものをイメージの中に取り込み、自分のイメージそのものを変容させる行為だ。
瞑想によってイメージの妥当性が増せば、現実を操作しやすくなるはずだ。瞑想によって妥当性の高い自分を造り出し、現実を操作しようとしているのだから、イメージの対象をイメージによって操作しようとする事と、瞑想によって現実をイメージの中に取り込もうとする行為の間に矛盾はないはずだ。頭の中だけで考えて、小手先で何とかしようとする怠惰とは違うはずだ。
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