2005.10.05 Wed
俯瞰する感覚
二〇〇五年 八月。
その数日間、物事を前へ前へ進めようとする日常感覚と、瞑想によって造り出せる集中した状態との間の矛盾について考えていた。しかし、やがて実際にはそれらの間にたいした違いはない事に気がついた。ある日気功をした後、どっからでも掛かって来いというような静かな澄んだ感覚に包まれた。しかし、ふと「現在の自分」というという一点で力んでいるのとは違う、かつてのもっと拡がりのある感覚を思い出した。

私はさまざまな要素で出来ていて、自分自身を含むこの世界を構成するさまざまな要素を統制しようとする自己の主体がある。そして、かつてはこの世界そのものが明確な意志を持って動いているように見えていて、その世界の意志と自分の意志が密接に関係し合っていた。そして、その緊張感が一瞬一瞬に全力を尽くす事を可能にしていた。そのような全体を俯瞰する視線を持つ事で、世界を直接操作できそうだった。
十年近く前、いろいろと追い詰められた私は一日限りの短期バイトを何回かした事があった。
中学を出てから十年近く社会との関係を絶っていたし、当時は圧倒的な不快感が全身を覆い、午前中から出掛けたりすると全身が麻痺したようにだるく、重く、昼飯を食べても口が乾いていて唾液が出ず、全く味がしないし、飲み込むのも苦痛だった。そんな状態の自分が周囲から変に見えないか不安だった。
しかし、実際は他人には外見だけからは何も分からないようだった。むしろ周囲の自分に対する態度を見ると、世界と自分の関係を感じているとき、ただそこにいるというだけで他人の眼に私は何か大きな存在に映るようだった。
初めは緊張でどきどきして頭がくらくらしたし疲労感で変な気分だったが、他人への緊張感も全身を覆う圧倒的な不快感も、何回か行くうちに軽減した。自分の持つ適応力に、自分で感心した。
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その数日間、物事を前へ前へ進めようとする日常感覚と、瞑想によって造り出せる集中した状態との間の矛盾について考えていた。しかし、やがて実際にはそれらの間にたいした違いはない事に気がついた。ある日気功をした後、どっからでも掛かって来いというような静かな澄んだ感覚に包まれた。しかし、ふと「現在の自分」というという一点で力んでいるのとは違う、かつてのもっと拡がりのある感覚を思い出した。

私はさまざまな要素で出来ていて、自分自身を含むこの世界を構成するさまざまな要素を統制しようとする自己の主体がある。そして、かつてはこの世界そのものが明確な意志を持って動いているように見えていて、その世界の意志と自分の意志が密接に関係し合っていた。そして、その緊張感が一瞬一瞬に全力を尽くす事を可能にしていた。そのような全体を俯瞰する視線を持つ事で、世界を直接操作できそうだった。
十年近く前、いろいろと追い詰められた私は一日限りの短期バイトを何回かした事があった。
中学を出てから十年近く社会との関係を絶っていたし、当時は圧倒的な不快感が全身を覆い、午前中から出掛けたりすると全身が麻痺したようにだるく、重く、昼飯を食べても口が乾いていて唾液が出ず、全く味がしないし、飲み込むのも苦痛だった。そんな状態の自分が周囲から変に見えないか不安だった。
しかし、実際は他人には外見だけからは何も分からないようだった。むしろ周囲の自分に対する態度を見ると、世界と自分の関係を感じているとき、ただそこにいるというだけで他人の眼に私は何か大きな存在に映るようだった。
初めは緊張でどきどきして頭がくらくらしたし疲労感で変な気分だったが、他人への緊張感も全身を覆う圧倒的な不快感も、何回か行くうちに軽減した。自分の持つ適応力に、自分で感心した。
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|この身体、この精神 | 18:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

