2005.07.10 Sun
意識の統合性
二〇〇五年 三月。
ぼんやり飯を食っていると、弟にとあるオンラインゲームに誘われて、自分のパソコンでプレー出来るのか試してみた。よほど退屈していて、新しい行動に飢えているのか、わくわくして、いつもより時間がゆっくり進んでいる気がした。
ずっと、一瞬一瞬に全力を尽くすべきだと考えていたが、そう考えてもやはり何も彼もが面倒で仕方なく、ただ気持ちが空回りして辛いばかりだった。しかし、新しいゲームを始めてみようと思ったら、わくわくして、目の前の行為にいつもより集中できている感じで、密度の濃い時間がゆっくり進んでいるように感じた。困難な事をやろうやろうと思い詰めているより、何か新しく、楽しい事を始めた方が意欲に繋がるのかもしれないと、オンラインゲームを始めてみた。
しかし、オンラインゲームとは何が面白いのか。ゲーム空間のプレイヤーたちは互いに無関係に黙々と作業をしているだけだ。普段街を歩いているときと同じだ。社会に知人を全く持たない私にとって、周囲の人間たちは何の接点もない存在であり、移動する骨と肉の塊でしかない。
子供の頃はどうだったか。その頃は、街を行き交う見ず知らずの人間がどう見えるかなど考えた事もなかった。街を歩くのは、仲間が待つ学校なり、塾なりといった目的地への移動でしかなかった。そして、そこでの手の届く範囲の人間関係が私にとっての世間であり、小学生とか中学生とかいう社会の中の立場を通して社会を眺めていた。
世間という言葉が具体的人間関係を指すのなら、知人を持たない私には世間という感覚はない。他人に知人と見ず知らずの人間という分け隔てがない私にとって、街という空間も社会という観念も酷く平板で、社会は外から一方的に眺める観察の対象でしかない。
結局、社会の中での立場や具体的人間関係によって、世界の見え方は変わってくるのだ。という事はゲームの中でも誰か知り合いが出来れば、ゲーム空間の見え方も変わるのか。
ネットとリアルという分け方があるが、違和感を感じて仕方ない。画面の向こうにいるのはどう考えても「リアル」な人間だ。
ゲームのバーチャル空間がリアリティを増せば、要するにマトリックスのようにコンピュータと脳を直接繋げて、バーチャル空間の中に完全に入り込んでその中の物に触れられるようになれば、人間はそこにハマり込んで実空間に戻って来なくなるのではないかと誰が言っていた。しかし、例えば会社の建物の中で何らかの体験をして、またその建物から出てくる。バーチャル空間での体験も、自分の部屋なり、ネットカフェなりといった実空間の特定の場所での特定の体験だ。実空間とウェブ空間は地続きであり、それらは対立する概念ではない。
だから、問題なのは空間ではなく、さっき言ったようにその社会の中での立場や人間関係なのだ。ウェブ空間で個人を特定するのは難しい。だから、失敗したと思えばハンドルネームを変えて、またやり直せば好い。実空間の中とは違う人間を演じる事も出来る。だから、人間にとってはバーチャル空間よりも、バーチャルな自己イメージと人間関係が重要なのだ。
多重人格というのは、自分では理解できないほどの辛い記憶を抑圧し、やがて意識から切り離されたその記憶が普段とは別の人格を持つようになったものだという。だから、多重人格者は意識上の一貫した記憶から切り離された意識下の抑圧された記憶を意識化し、意識に統合する必要がある。つまり、人格とは自らの雑多な記憶にどのような一貫した理解と解釈を持っているかという事であり、自分にとって世界がどう見えているかという世界観の事だ。
ウェブ空間と実空間を分けて考える人間は、多分ウェブ空間に実空間とは違う世界を見たがっているのだ。そして、その中で実空間の中でとは違う自分を演じたがっているのだ。そうやって彼らは実空間の中での人格とは別のバーチャルな人格を作り上げる。彼らは多重人格者とは違って意識的に自分好みの別人格を作り、その中にハマり込んでいく。バーチャルな人格は意識的に作られたものだが、彼らはなぜ自分がそんな事をしているのかまでは意識していない。それを意識しているのなら、バーチャルな人格は別人格ではなく、彼の全体的な人格の一部であり、彼の人格の一面でしかなく、それは彼の生きる戦略でしかない。
日常の瑣末な行為があまりに面倒で、そのせいで行動が滞っている気がして、何か楽しい事をすればそれが意欲に繋がるかと、オンラインゲームを始めてみた。ゲームをすると集中力が高まって体調が好くなるのか、眼がよく見えるようになる。しかし、それも初めだけで、すぐに疲れて嫌になるし、飽きる。いつもの事だ。オンラインRPGはオフラインのシングルプレーのRPGに比べて、ストーリーがはっきりしないし、レベル上げとクエストにやたらと時間と手間が掛かる気がする。一体何が面白いのか。
多重人格者にとっては、自分の記憶をいかに統合するかが課題だ。要するに、意識の統合性がその人間の現実への対応能力を決める。ネットが社会と人間の意識を変えるという言説の影響を受けて、この頃ネットについて考える事に囚われていた。しかし、ネットでどんなにたくさんの人間と繋がったところで、私にとっては自らの意識の統合性が問題であり、それは自分ひとりで取り組むべき事で、ネットの存在が自分の意識に変化を与えているとはどうしても思えなかった。それに、一瞬一瞬に全力を尽くすために、私には世界そのものと自分ひとりで対峙しているのだという緊張感と覚悟が必要だ。それとも、それはまだネットを十分に使いこなせてないからで、やがて私が自らの思想を実行に移すとき、それは大きな意味を持つのだろうか。
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ぼんやり飯を食っていると、弟にとあるオンラインゲームに誘われて、自分のパソコンでプレー出来るのか試してみた。よほど退屈していて、新しい行動に飢えているのか、わくわくして、いつもより時間がゆっくり進んでいる気がした。
ずっと、一瞬一瞬に全力を尽くすべきだと考えていたが、そう考えてもやはり何も彼もが面倒で仕方なく、ただ気持ちが空回りして辛いばかりだった。しかし、新しいゲームを始めてみようと思ったら、わくわくして、目の前の行為にいつもより集中できている感じで、密度の濃い時間がゆっくり進んでいるように感じた。困難な事をやろうやろうと思い詰めているより、何か新しく、楽しい事を始めた方が意欲に繋がるのかもしれないと、オンラインゲームを始めてみた。
しかし、オンラインゲームとは何が面白いのか。ゲーム空間のプレイヤーたちは互いに無関係に黙々と作業をしているだけだ。普段街を歩いているときと同じだ。社会に知人を全く持たない私にとって、周囲の人間たちは何の接点もない存在であり、移動する骨と肉の塊でしかない。
子供の頃はどうだったか。その頃は、街を行き交う見ず知らずの人間がどう見えるかなど考えた事もなかった。街を歩くのは、仲間が待つ学校なり、塾なりといった目的地への移動でしかなかった。そして、そこでの手の届く範囲の人間関係が私にとっての世間であり、小学生とか中学生とかいう社会の中の立場を通して社会を眺めていた。
世間という言葉が具体的人間関係を指すのなら、知人を持たない私には世間という感覚はない。他人に知人と見ず知らずの人間という分け隔てがない私にとって、街という空間も社会という観念も酷く平板で、社会は外から一方的に眺める観察の対象でしかない。
結局、社会の中での立場や具体的人間関係によって、世界の見え方は変わってくるのだ。という事はゲームの中でも誰か知り合いが出来れば、ゲーム空間の見え方も変わるのか。
ネットとリアルという分け方があるが、違和感を感じて仕方ない。画面の向こうにいるのはどう考えても「リアル」な人間だ。
ゲームのバーチャル空間がリアリティを増せば、要するにマトリックスのようにコンピュータと脳を直接繋げて、バーチャル空間の中に完全に入り込んでその中の物に触れられるようになれば、人間はそこにハマり込んで実空間に戻って来なくなるのではないかと誰が言っていた。しかし、例えば会社の建物の中で何らかの体験をして、またその建物から出てくる。バーチャル空間での体験も、自分の部屋なり、ネットカフェなりといった実空間の特定の場所での特定の体験だ。実空間とウェブ空間は地続きであり、それらは対立する概念ではない。
だから、問題なのは空間ではなく、さっき言ったようにその社会の中での立場や人間関係なのだ。ウェブ空間で個人を特定するのは難しい。だから、失敗したと思えばハンドルネームを変えて、またやり直せば好い。実空間の中とは違う人間を演じる事も出来る。だから、人間にとってはバーチャル空間よりも、バーチャルな自己イメージと人間関係が重要なのだ。
多重人格というのは、自分では理解できないほどの辛い記憶を抑圧し、やがて意識から切り離されたその記憶が普段とは別の人格を持つようになったものだという。だから、多重人格者は意識上の一貫した記憶から切り離された意識下の抑圧された記憶を意識化し、意識に統合する必要がある。つまり、人格とは自らの雑多な記憶にどのような一貫した理解と解釈を持っているかという事であり、自分にとって世界がどう見えているかという世界観の事だ。
ウェブ空間と実空間を分けて考える人間は、多分ウェブ空間に実空間とは違う世界を見たがっているのだ。そして、その中で実空間の中でとは違う自分を演じたがっているのだ。そうやって彼らは実空間の中での人格とは別のバーチャルな人格を作り上げる。彼らは多重人格者とは違って意識的に自分好みの別人格を作り、その中にハマり込んでいく。バーチャルな人格は意識的に作られたものだが、彼らはなぜ自分がそんな事をしているのかまでは意識していない。それを意識しているのなら、バーチャルな人格は別人格ではなく、彼の全体的な人格の一部であり、彼の人格の一面でしかなく、それは彼の生きる戦略でしかない。
日常の瑣末な行為があまりに面倒で、そのせいで行動が滞っている気がして、何か楽しい事をすればそれが意欲に繋がるかと、オンラインゲームを始めてみた。ゲームをすると集中力が高まって体調が好くなるのか、眼がよく見えるようになる。しかし、それも初めだけで、すぐに疲れて嫌になるし、飽きる。いつもの事だ。オンラインRPGはオフラインのシングルプレーのRPGに比べて、ストーリーがはっきりしないし、レベル上げとクエストにやたらと時間と手間が掛かる気がする。一体何が面白いのか。
多重人格者にとっては、自分の記憶をいかに統合するかが課題だ。要するに、意識の統合性がその人間の現実への対応能力を決める。ネットが社会と人間の意識を変えるという言説の影響を受けて、この頃ネットについて考える事に囚われていた。しかし、ネットでどんなにたくさんの人間と繋がったところで、私にとっては自らの意識の統合性が問題であり、それは自分ひとりで取り組むべき事で、ネットの存在が自分の意識に変化を与えているとはどうしても思えなかった。それに、一瞬一瞬に全力を尽くすために、私には世界そのものと自分ひとりで対峙しているのだという緊張感と覚悟が必要だ。それとも、それはまだネットを十分に使いこなせてないからで、やがて私が自らの思想を実行に移すとき、それは大きな意味を持つのだろうか。
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