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肉体寄りの感覚

 二〇〇七年 九月。


 



 具合の悪さの中で考えた。気力や体力が衰えているのだ。観念的なことばかり考えていないで、もっと身体や肉体寄りの感覚を作り直すべきだ。






 以前、そのようにして病に闘いを挑んだことがあった。

 瞑想したり、散歩したりしているうちに、身体感覚や自己イメージは変わっていった。

 私は、生きることは無意味だと思っていた。それでも、生きることを選択したつもりだった。しかし、それがとてつもなく苦しかった。

 しかし、あるときふと思った。

 よく考えれば本当に生きる無意味を受け入れたのなら、そんなに苦しむはずはない。勉強しようとすることも、瞑想することも、その他のあるゆることがその無意味に対抗するための行為に過ぎなかった気がした。

 そもそも生きることに、意味を感じるとはどういうことなのか。それが充実感などの気分のことであるのなら、充実感をもって生きていようが、むなしさにさいなまれながら生きていようが、それは気分に過ぎない。人間の意識が気分だけで出来ているわけではない以上、そのことに過剰にこだわる理由はない。思考はもっと別のところで、回すべきだ。

 そう考えると、かつて私を打ち倒した絶望は消えた。悪い夢から醒めたようだった。

 しかし、同時に瞑想も勉強も全て、結局死に物狂いで感覚や気分をいじくっていただけのような気がしてきて、失望した。

 かつての絶望が生きることの意味を求めながら、それをどうしても得られないという、情熱の裏返しだとすれば、このとき感じた失望はそれとは対極にあるような非常に冷めた感情だった。そんな冷めた気分は初めてだった。

 戦うだけの覚悟も、逃げ切るだけの自信もなく、ただ静かな死だけを願う冷めた老人になった気がした。

 しかし、やがてそのような冷めた気分の中にこの世界や自分自身に対する奇妙な確信のようなものが芽生えた。そして、それが自分の中で確実に育っていくのが不思議だった。






 私は小学生の頃、喘息持ちだった。発作を起こしていないときでも、常に身体はだるく重かった。少し走っただけでゼーゼーと息苦しくなった。それで、友人と遊ぶこともほとんどなく、家でごろごろしてばかりいるような子供だった。自らの貧弱な肉体にすっかり失望して、精神だけの存在になれたらどんなに楽だろうと、そんなことばかり夢想していた。

 精神を病んでからも思うに任せぬ自らの肉体や気分からは目を背け、意志の力だけで重い身体や心を引き摺ることしか考えられなかった。

 しかし、やがてそれではにっちもさっちもいかないことを思い知る。それでようやく自らの肉体や気分や感情と向き合うようになり、身体感覚や自己イメージは変わっていった。

 単に気分や感覚をいじくっていただけだと思ったが、絶望から抜け出したというだけでなく、実は整理されずばらばらだった心と身体がそれなりに上手く統合されたのかもしれない。それで、いつの間にか自分自身に確信を感じるようになったのかもしれない。

 絶望から抜け出したとき、同時に生きることに意味を求める情熱を失った気がした。だが、今考えれば、生きることに意味を求める情熱といっても、何か具体的なものを求めていたというより、むしろ何を求めていいのか分からなくてもがいていただけだった。別にかつての自分が真剣で深い人間だったというのではなく、不安や不満による何の実効性もない力みを情熱や努力と勘違いしていただけだ。

 絶望から抜け出した後、全ては生きる無意味に抵抗するために気分や感覚をいじくっていただけな気がして失望し、次に進む方向を見失った。身体は、私の頭の中と現実の世界を接続するものだ。身体について考えることは、単なる空想と現実の世界を繋げる入り口になるはずなのに、進むべき方向を見失ってしまうと、単に気分や感覚に果てしなく強迫的になって、身体について考えれば考えるほど、思考は周囲の現実から切断されて、空回りした。しかし、新たなものが見えつつある今、以前より上手く出来そうな気がする。 




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散歩

 二〇〇七年 九月八日。







 歯医者へ行った後、近くの公園を散歩した。

 以前は、よくこうやって散歩をした。

 中学生の頃部活でよく身体を動かしていたが、なかなか筋肉はつかなかった。しかし、大人になるとホルモンバランスが変わるのか、少し歩いただけで結構筋肉がつくようになった。

 最近はほとんど身体を動かさず、散歩すらしない。おかげですっかり薄っぺらい、貧弱な身体になってしまった。

 もう一度身体を作り直した方が良い。




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意欲と疲労感

 二〇〇七年 八月。


 しばらく収功をしないでいた。

 その間に自然と目の前の行為に集中し、連続して行動できるような感覚ができ上がった。それまでは「かったるいなあ」と思っているうちに時間が過ぎていってしまったり、行動を始めてもすぐ、ああでもない、こうでもないと強迫的な思考に巻き込まれて、行動が中断されることが多かった。

 そして、しばらくぶりに収功をした。そうすると最近得た目の前の行為に集中した感覚、しかし、上半身を力ませて前のめりな感じ、は消えてもっと柔らかい身体全体で前に出るような感覚が生じた。身体の芯から、「やってやるぞ」という意欲が湧きあがってくる感じだ。

 だが、そんな感覚は一時的なもので、しばらくするとぐったりと疲れ果てた気分に支配された。

 本格的に夏バテしたのか、それからずっと具合が悪かった。頭がくらくらする感じがして、腹の辺りもだるく、ちょっとした刺激で腹を下しそうな嫌な感じだ。身体のさまざまな部分がぴくぴく震えている。



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暑い夏

 二〇〇七年 八月六日。



 その日は、晴天だった。外に出ると、気持ちが好い。照りつける太陽に駆り立てられるようだ。

 久し振りにJRに乗った。

 子供の頃、こうやってJRに乗って塾に通った。そのときの感覚を、ふと思い出した。子供の頃の自分、つまり、病気になる前の自分に戻りつつあるのだろうか。それともいつも乗る地下鉄の車両とは音も匂いも違う、JRの車両が当時の記憶を蘇らせるだけだろうか。



 


 出掛けている間は特にどうという事もなかったのだが、出掛けた後の数日間夏バテしたのか、酷く疲れ果てたようなだるさを感じた。

 しかし、数日するとその疲労感も消え、自然と目の前の行為に集中できて、畳み掛けるような調子に乗った気分になった。



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|この身体、この精神 | 17:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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世界観と自己イメージ

 二〇〇七年 七月。



 電車の中でプラトンの「国家」を、ちびりちびりと数ヶ月かけて読んだ。





 国政と魂の関係を延々と語った後、最後に魂の不滅が説かれる。

 なぜプラトンは魂と身体を完全に分けて考えたのか気になった。要するに、それはイデアとその仮象としてのこの世界という彼の世界観の反映なのだろう。結局、世界観と自己イメージは表裏一体なのだ。






 小学生の頃、相対性理論に関する本を読んで、その日常の感覚とは違う世界観に驚いた。そして、その本に載っている、いろいろな公式をパソコンに打ち込んで遊んだりした。

 しかし、中学生になると、世界の全てを科学し尽くす事なんて出来ないし、仮に出来たとしてそれが何になるのかと考えるようになった。そもそも科学する事で自分がこの世界をどうしたいのかが分からない。

 関心はどんどん自らの内面と自らの存在の根拠へと、向かっていった。

 私は自らの存在の根拠というか核心は、自らの意識だと思っていた。それがこの身体を支配しているのだと思っていた。

 だが、私には自らの意思決定の過程がまるで見えない。自らの意思で好き嫌いを決めたり、気分を形作っているわけではない。自らの判断が好き嫌いや気分に左右されるとしたら、自らの意思というものが何か得体の知れないものの支配下にあるような気がして不安になった。

 自らの主体であると思っていた自らの意識が、結局は自分にとって巨大なブラックボックスである事に気がついた。

 同時に当時は、どうせ死ぬのなら何をしても意味がないのではないか、そもそも生きていても仕方ないのではないかという考えに取りつかれていた。そして、また、仮に何らかの方法で死を免れたとしても、自らの存在の根拠を見失って基本的に生きる事を無意味だと感じていた私にとって、無意味な生が永遠に続く事によってそこから何らかの価値が生まれるとも思えなかった。

 もはや、どこにも救いはない。自分を含めたあらゆる人間にも、この社会にも何の価値も見出せなかった。奈落の底に落ちていくような気分だった。

 




 今考えれば、自分をこの世界から切り離して、自分の内面だけに意識を向けたのが間違いだった。誰かの心の中を覗く事が出来たとしても、見えるのは相手の心の中に映り込んだこの世界だけだろう。

 自分をこの世界から切り離して、自分の内面だけを見詰めれば、何も見えなくなるのは当然だ。世界観と自己イメージは表裏一体なのだ。真に主体的な意志が生まれるとしたら、世界観と自己イメージの間からしかないだろう。

 子供の頃相対性理論に関する本を読んで関心を持ったのは、単に子供じみた好奇心に過ぎず、だから、その先に進めなかったのだと思っていた。

 しかし、本当はそのとき感じた世界観の揺らぎみたいなものが、自分にとって重要な意味を持つ事を本能的に感じていたのかもしれない。



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|この身体、この精神 | 02:20 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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