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個別の問題

 二〇〇七年 五月五日。


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 日本美術が笑う        森美術館


 近代以前の日本美術が、どんなものだったのか気になった。特にこの間西洋美術館で見た作品と同時代の日本美術がどうだったのか興味があった。

 明治以後に流派から抜け出して、伝統的な画材を使いつつ、世界に通用する絵画を生み出そうという動きが日本画だ。しかし、今目の前にあるそれ以前の絵画が日本画に比べて劣っているふうには見えなかった。

 ぼさぼさの頭で不気味な笑みを浮かべている寒山拾得図が何点か展示してある。雪村のものが一番気に入った。

 この前西洋美術館で見たヨーロッパの絵画と、同時期の日本の絵画を比べると、随分と雰囲気が違う。

 ヨーロッパは自らの思想を深めるために芸術と向き合う感じがあったが、日本の絵画はあくまでも日々の生活を彩るものであり、酷く日常的な感じがした。






 笑い展          森美術館



 最初のセクションにフルクサスの作品が並べてあった。

 この間国立新美術館でフルクサスの作品を見たときは、まとまりのない雑多な物の集積にしか見えなかった。しかし、それはそれ以前の美術との連続性の中で見ていたからで、今現在の美術から振り返る形で見てみると、特に違和感なく彼らのアイデアは面白いと思えた。



 一群のフルクサスの作品から離れて、先に進む。



 壁にかけられたモニターにスニーカーを履いた足が映っている。靴紐の先に糸が結び付けられ、上に伸びている。その糸が不器用に少しずつ引っ張られる事で、靴紐がほどける。

 その作品には「勃起でくつひもをほどく」(マッズ・リネラップ 2003)という題がついている。

 後ろの二人組みの女性がニヤニヤしながら「頑張れ」などと言っている。

 しかし、多分これは指で引っ張っているだけだ。これは題名のつけ方が肝であり、題名次第でどうとでも見えるという事だろう。

 


 先に進むほど、特定の地域や国の文化的、政治的な個別の状況を扱った作品が増えた。よく知らない国の文化や政治に対する批判やパロディやその状況下での個人的体験を作品として見せられても、なかなかすぐにはピンと来ない。

 これがポストモダンという事なのかと思った。モダニズムは国や民族を越えた合理性を追究したが、最近はとりあえず目の前の個別の問題を追究しているという事だ。

 とにかく作品の量が多過ぎる。おかげで動きのある映像作品やインスタレーションばかりに時間を使ってしまって、動きのない絵画などはつい素通りに近くなってしまう。






 展示室を出て、エレベーターに向かう。

 シティビューの入口の隣のスペースで、よく貸し切りのイベントをやっている。

 その日も何かのイベントをやっていて、天井に青や紫の光が音楽に合わせてちらちら動いている。レストランというかイベントスペースというかの入口には、黒いスーツを着たごつい黒人が立っている。まるでSecond Lifeの中のようだ。

 その日は外国人が多く、エレベーターの中では英語と中国語と何語か分からない言葉が飛び交っている。ますますSecond Lifeのようだ。



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|美術館・博物館 | 03:39 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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個人の自我

 二〇〇七年 四月六日。



 普段は二十世紀以降の美術を見ているのだが、一月にビル・ヴィオラ展を見て、ルネサンス美術に興味を持った私は国立西洋美術館に来た。






 イタリア・ルネサンスの版画            国立西洋美術館



 元々は銅版画というのは金細工師によって制作されていた。当時の人々なら誰でも知っているような出来事や神話の中のエピソードが描かれていて、特に作者独自のコンセプトというものはない。

 やがて作品に署名が入るようになり、歴史上の出来事や神話のエピソードをテーマにしながらも、さまざまな図像を組み合わせて作家独自の解釈で作品が作られるようになる。

 作品には細かい描線で、一見作品のテーマとは関係ないような動物や人物や小物が細かく描きこまれている。それらの物も当時の人々が見ればそれと分かる何らかの意味を担っているのだろうが、私にはさっぱり分からなかった。

 展示してある作品の作者としてはデューラーぐらいしか知らなかったし、そのデューラーの作品をまじまじと見るのも初めてだった。

 彼の描線は他の作家の作品と比べると生き生きしていて、彼の作品は別格に思えた。

 全体を見て、ヨーロッパの歴史には西暦一五〇〇年前後に何らかの境界があるようだった。日本でいえば、戦国時代だ。





 企画展の後、常設展を見た。

 ルネサンス期の絵画の背景の風景はどこかに実在する風景ではなく、作者の掲げるテーマを表現するために注意深くさまざまな図像を組み合わせて構築された架空の風景だ。

 しかし、十七世紀になるとこれといった象徴性の感じられない、日常の風景が描かれるようになる。何があったのか。

 十七世紀ぐらいの絵だろうか。書物を持った貴族の男性がこちらを見ている。説明パネルには、本というものはその内容と自分の人生を照らし合わせて読むものだというような事が書いてある。

 一般の民衆がどうであったかは分からないが、当時既に自立した個人の自我というものが確立していたのだと思った。知識欲に溢れた時代だったのだろう。

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|美術館・博物館 | 02:19 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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私的な痕跡

 二〇〇七年 三月三十日。



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 MOTアニュアル2007 「等身大の約束」      東京都現代美術館





 千葉奈穂子や秋山さやかやしばたゆりといった、個人の人生や日常をテーマとした作品が気になった。



 

 千葉奈穂子の作品は、彼女の故郷の伝統技術である成島和紙に、日光写真の一種であるサイアノタイプという方法で、故郷である東北の衰えゆく農村の風景を青く焼き付けている。

 粗い粒子の写真が、ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。



 

 半透明の布にプロジェクターで、深川の江戸時代の古地図と現代の地図が交互に映し出されている。作者は東京都現代美術館の地元である深川で作品製作のためにしばらく生活し、歩いたルートがさまざまな色の糸で縫い付けてられている。

 秋山さやかの「あるく  私の生活基本形 ―深川    2006年8月4日〜」(2007)だ。

 作者の日常の空間的拡がりと、江戸から現代への時間の流れが重なって面白い。





 しばたゆりの「Material Colors」シリーズは、作者個人と関係の深いもの、日常の中で接した物を粉末にして、それで絵具を作り、その粉末の元々の姿を描いた作品だ。

 それは、子供の頃に親に買って貰ったぬいぐるみだったり、どこかの猟師を訪ねたときに見た猪や鹿の毛皮や角だったり、かつて自らが描いた日本画を削って粉末にしてその絵の絵を描いたり、さまざまだ。

 まさに作者自身と人生の痕跡であり、記録だと思った。





 全神経を集中して自らの思考や感覚を目の前の作品に凝縮していくのとは違う、作品と個人の日常が互いに侵食し合っているような感じは何なのか。

 美術の概念の拡張なのか、それとも他に表現する事がないだけなのか。




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 帰り道、家まで歩きながら、何をどう感じるべきなのか考えた。

 考えながら、気感が身体の部分部分に織り込まれていく感覚を得た。

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|美術館・博物館 | 03:12 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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能動的に思考とイメージを構成しろ

 二〇〇七年 二月二十三日。


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 20世紀美術探検―アーティストたちの三つの冒険物語―        国立新美術館


 二十世紀美術を振り返る企画展だ。

 デュシャンの作品は詩的だと改めて思った。

 既製品を意外な形で組み合わせて、そこに言葉である題名を重ねる。そうする事で、独特なイメージと質感を作り出す。

 シュールレアリスムのコーナーで作品を見ながら、自分の詩の見方は結局シュールレアリスムなのだと思った。



 以前は説明パネルを見れば、強迫的になってちゃんと文章が頭に入っているのかと気になって、力んだ。作品を見れば、これでいいのだっけ、以前似たような作品を見たときは何を考え、何を感じたのか、そして今は何を感じているのか、ああでもない、こうでもない、と考えて力んだ。しかし、最近はそうでもない。何となく、自然と見れている。

 そんな事を考えていると、前の日あまり寝ていないせいで、突然強い眠気に襲われた。そして、眠気を感じ始めると、また、ああでもない、こうでもない、という思考が生じて、力む。自然と見れているとはどういう事だ、それは本当か、では以前はどんな感じだったのか、ああでもない、こうでもない。



 二十世紀後半になると、二十世紀前半とはガラッと雰囲気が変わる。並んでいる作品を見ても、単に雑多な物の集積にしか見えない。フルクサスの作家の作品は特にそうだ。

 少し考えた。芸術とは自分が受け取った現実を加工して表現として吐き出す事だとすると、この前見た向後兼一の作品は芸術の本質を突いていたのかもしれない。しかし、今目の前にあるフルクサスの作品からは、何かを加工してひとつの表現にまとめよういう意志を感じる事が出来ない。何とか理解しようとするが、眠くてそれ以上先に思考を進められない。

 ロータ・バウムガルテンの意味深な題名の写真作品が印象に残ったが、具体的な内容は記憶に留める事が出来なかった。



 眠くて仕方ない。最後の現代のセクションのアンドレア・ジッテルの映像作品を見ていても、気がつくとうとうとしている。

 幾つもの平べったい金属の物体が床面から等距離に吊るされ、床面と平行な平面を形成している。コーネリア・パーカーの作品だ。面白い光景だが、そのまま素通りする。

 田中功起の展示空間には、ビデオ映像やオブジェが並べられているが、眠くて頭が全然回転しない。


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 美術館を出て地下鉄のホームまで歩いているうちに、眠気は薄らいだ。そして、地下鉄の中で考えた。

 コンセプチュアルアートは、ミニマルアートから生まれたという。いかなる思想も感情も削ぎ落とし、単純な形態のみにこだわったのがミニマルアートだ。

 しかし、美術作品はいかなる文化的文脈や感情からも切り離してその作品の形態のみで評価するべきだというファーマリズムの極致であるミニマルアートも、結局表現しているのは美術の自律性という概念である事に気づく事で、コンセプチュアルアートが生まれたのだと思う。

 というわけで、最近の美術は目の前の物質としての作品よりも、その背後にあるコンセプトが重要視される。

 二十世紀前半の美術は、全神経を集中して目の前の物質としての作品を構成している。だから、作品は密度の濃い思考と感覚を発していて、それは鑑賞者に何らかのイメージや質感を喚起する装置として機能する。鑑賞者はどちらかというと受身だ。

 しかし、最近の美術では作品の本体は作家の思考や行動や、作家の生きる日常そのものだったりする。目の前の物質としての作品は、その痕跡だ。だから、鑑賞者は自らの思考やイメージを能動的に構成して、その痕跡から作家の意図や行動を想像し、その意味や価値を能動的に評価する必要がある。それで、受身な態度で眺めていても、二十世紀後半の作品は雑多なものの集積にしか見えなかったわけだ。アンドレア・ジッテルの映像作品も彼女のプロジェクトの記録であって、あくまでも作品の本体は彼女の行うプロジェクトそのものだ。

 そんな事を考えつつも、気がつくとうとうとしている。立っていると、がくんと膝が落ちて我に返る。

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|美術館・博物館 | 20:39 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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記憶の中の過去と未来

 二〇〇七年 二月十一日。


 クリスチャン・ボルタンスキー   亡霊のまなざし     東京都現代美術館


 湯沢英彦という研究者が、ボルタンスキーについて語っていた。

 ボルタンスキーは写真や古着を使って、「不在」という事をテーマにした作品を作っている。「不在」とは誰かがかつては存在していたが、もうここにはいないという意味だ。

 彼は小学生時代のクラスメートの集合写真を見て、その子供たちの名前を誰ひとり思い出せなかったという。写真の顔以外は何も分からない。現在の彼らの事は一切知らない。自分の中ではこの子供たちは全て死に絶えてしまったかのようだ。そして、この「死者たち」へのオマージュとして、この集合写真の顔の部分だけを切り抜いたものを使って、作品を作った。

 話を聞きながら、私自身としては「不在」よりも、仮にその元クラスメートを捜して再会したとしたら、その失われた記憶はどうなるのかという事の方が気になった。





 話を聞いた後、常設展示室で「死んだスイス人の資料」(1990)を見た。

 薄暗い展示室の中に数百のビスケット缶が積み上げられ、その一つひとつにスイスの新聞から切り抜いた死亡記事の顔写真が貼り付けられている。それを、積み上げられたビスケット缶の上に置かれた電気スタンドが照らし出している。

 なぜスイス人かというと、かつては自身がユダヤ系という事でユダヤ人の写真を使っていたが、「ユダヤ人」と「死」があまりに上手く結びつき過ぎるという事で、政治的に中立なスイス人の写真を使ったという事だ。

 それぞれがそれぞれの人生を生きたはずなのに、観客には誰が誰だか分からない。個々人の唯一性は消えて、もはや数百枚の写真の集積でしかない。

 言葉にすると重たいが、個人的には越後妻有アートトリエンナーレの廃校を使ったインスタレーションの方が好いと思った。廃校を使ったインスタレーションでは、地元のかつてその学校に通った人たちも訪れる。彼らはそこで過去の記憶と出会う。そして、語り合う。

 単に「不在」を扱うよりも、過去と現在が出会う事でどんな未来が生まれるのかの方に私は興味があるし、その方が表現としての密度が増すと思う。 

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|美術館・博物館 | 17:52 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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