2008.10.01 Wed
無限
二〇〇八年 八月。
かつての病との闘いの中で、気分や感覚は変化した。
しかし、地獄から抜け出しても、そこにあるのは天国ではなく、何もない荒野だった。今までと同じやり方では、これ以上進めそうもなかった。そもそもどっちが前か後ろかさえ分からない。
そのうちだんだん今までやってきた事は、結局気分や感覚をいじくっていただけではないのかという疑念と失望を感じるようになった。
しかし、気分や感覚をいじくっていただけというが、気分や感覚以外に何があるというのか。抽象的な思考か。
だが、そんな形のないものを何で、これは思考だ、これは感覚だと区別できるのだ。そんなものは私が勝手に作り出した幻ではないのか。そんなことだから、気分や感覚をいじくっていただけだなんていうおかしな考えが生じるのだ。
気分や感覚をいじくっていただけと言い切ってしまえば、実際に気分や感覚の問題に止まってしまうだろう。しかし、本当は全ては複雑に絡み合っているのではないか。だったら、今度こそ全てを絡め取ってやる。
以前はこの世界が特定の意志を持って動いているように見えていて、その意志と私の内面は密接に干渉し合っていた。この世界がもっと生々しく見えていた。それは病との闘いの中でのことで、見通しが全く利かずとにかく目の前の現実だけに集中していた。その必死さのせいだろうか、この世界に生々しい動きと拡がりを感じていた。
でも、それはその場限りの激情に身を委ねているだけにも思えた。この世界を現在という一点でなぞっているに過ぎない気がした。
やがて必死さを失うと、だんだんと見通しは利くようになっていったが、世界はどんどん静かになっていった。
子どもの頃は単に周囲の現実に適応するためや、子どもじみた好奇心を満たすために勉強していた。病気になってからは自分の個人的な苦悩を慰めるためや、単なる自己満足的な暇潰しとして勉強していた。でも、最近は勉強する方法や意味がだんだん分かってきた気がする。
瞑想と勉強を上手く組み合わせてみよう。いや、組み合わせるというより、本当はもともと地続きなのかもしれない。精神的、肉体的コンディションを整えるために瞑想しようと思っていたが、そんな単純なことではないのかもしれない。
ずっと以前は圧倒的な絶望感と全身を覆う不快感で、勉強しようとしてもなかなか出来なかった。その後、瞑想によって気分や感覚はある程度コントロール出来ることを知った。
しかし、私にとって瞑想は酷くしんどい行為だった。しかもすればするほどその目的と意味が分からなくなった。瞑想というのはまるで人生そのもののように、とんでもなく正体不明な行為だった。
気分や感覚に対して統制可能感を得たのは、私にとって大きな事だった。行動力を増さなければ何も始まらないことを思い知り、そのためにそれまで目を背けてきた病と正面から向き合わざるを得ず、始めた戦いだった。そしていつしか一つの段階が終わった。しかし、次の段階がどうしても見えなかった。
自分は何のために、どういう形で社会と関わるつもりなのか、まるでイメージ出来なかった。勉強できないことに頭がくらくらするほどの悔しさを感じていたが、今さら何をどのように勉強していいのか分からなかった。勉強することの意味そのものが、いつの間にかすっかり変わってしまったようだった。
気分や感覚をいじくっていただけではないのかという失望により、気分や感覚のコントロールは放棄された。にも関わらず、他に何をどうしていいのか分からず、そんな事をして何になるのかと思いながらも気分や感覚にこだわった。結局一から自分を作り直さなければならないというような、過剰な考えに囚われるようになった。しかし、常に「これでいいのか」という迷いと焦りがあるだけで、具体的に何が問題なのか、何をどうしていいのか分からないのだから、思考も感覚も空回りするだけだった。
そんな確信を持てない、真剣さに欠ける時間を重ねたせいだろうか、以前は自分には無限の可能性があるように感じていたのに、いつの間にか自分の人生の中で出来ることなど高が知れているように感じるようになってしまった。世界はすっかり静まり返った。
なるほど、遠くを見ることを忘れれば、目の前のものがやたらと大きく見えるわけだ。
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かつての病との闘いの中で、気分や感覚は変化した。
しかし、地獄から抜け出しても、そこにあるのは天国ではなく、何もない荒野だった。今までと同じやり方では、これ以上進めそうもなかった。そもそもどっちが前か後ろかさえ分からない。
そのうちだんだん今までやってきた事は、結局気分や感覚をいじくっていただけではないのかという疑念と失望を感じるようになった。
しかし、気分や感覚をいじくっていただけというが、気分や感覚以外に何があるというのか。抽象的な思考か。
だが、そんな形のないものを何で、これは思考だ、これは感覚だと区別できるのだ。そんなものは私が勝手に作り出した幻ではないのか。そんなことだから、気分や感覚をいじくっていただけだなんていうおかしな考えが生じるのだ。
気分や感覚をいじくっていただけと言い切ってしまえば、実際に気分や感覚の問題に止まってしまうだろう。しかし、本当は全ては複雑に絡み合っているのではないか。だったら、今度こそ全てを絡め取ってやる。
以前はこの世界が特定の意志を持って動いているように見えていて、その意志と私の内面は密接に干渉し合っていた。この世界がもっと生々しく見えていた。それは病との闘いの中でのことで、見通しが全く利かずとにかく目の前の現実だけに集中していた。その必死さのせいだろうか、この世界に生々しい動きと拡がりを感じていた。
でも、それはその場限りの激情に身を委ねているだけにも思えた。この世界を現在という一点でなぞっているに過ぎない気がした。
やがて必死さを失うと、だんだんと見通しは利くようになっていったが、世界はどんどん静かになっていった。
子どもの頃は単に周囲の現実に適応するためや、子どもじみた好奇心を満たすために勉強していた。病気になってからは自分の個人的な苦悩を慰めるためや、単なる自己満足的な暇潰しとして勉強していた。でも、最近は勉強する方法や意味がだんだん分かってきた気がする。
瞑想と勉強を上手く組み合わせてみよう。いや、組み合わせるというより、本当はもともと地続きなのかもしれない。精神的、肉体的コンディションを整えるために瞑想しようと思っていたが、そんな単純なことではないのかもしれない。
ずっと以前は圧倒的な絶望感と全身を覆う不快感で、勉強しようとしてもなかなか出来なかった。その後、瞑想によって気分や感覚はある程度コントロール出来ることを知った。
しかし、私にとって瞑想は酷くしんどい行為だった。しかもすればするほどその目的と意味が分からなくなった。瞑想というのはまるで人生そのもののように、とんでもなく正体不明な行為だった。
気分や感覚に対して統制可能感を得たのは、私にとって大きな事だった。行動力を増さなければ何も始まらないことを思い知り、そのためにそれまで目を背けてきた病と正面から向き合わざるを得ず、始めた戦いだった。そしていつしか一つの段階が終わった。しかし、次の段階がどうしても見えなかった。
自分は何のために、どういう形で社会と関わるつもりなのか、まるでイメージ出来なかった。勉強できないことに頭がくらくらするほどの悔しさを感じていたが、今さら何をどのように勉強していいのか分からなかった。勉強することの意味そのものが、いつの間にかすっかり変わってしまったようだった。
気分や感覚をいじくっていただけではないのかという失望により、気分や感覚のコントロールは放棄された。にも関わらず、他に何をどうしていいのか分からず、そんな事をして何になるのかと思いながらも気分や感覚にこだわった。結局一から自分を作り直さなければならないというような、過剰な考えに囚われるようになった。しかし、常に「これでいいのか」という迷いと焦りがあるだけで、具体的に何が問題なのか、何をどうしていいのか分からないのだから、思考も感覚も空回りするだけだった。
そんな確信を持てない、真剣さに欠ける時間を重ねたせいだろうか、以前は自分には無限の可能性があるように感じていたのに、いつの間にか自分の人生の中で出来ることなど高が知れているように感じるようになってしまった。世界はすっかり静まり返った。
なるほど、遠くを見ることを忘れれば、目の前のものがやたらと大きく見えるわけだ。
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|この身体、この精神 | 17:36 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑




